53年前の今日、沖縄が日本に返還されました。戦後27年間、米軍統治下にあった沖縄でアメリカ人の母と日本人の父の間に生まれたジョン・カビラさんに幼少期の話を伺いました。(全3回中の1回)
見た目以外は目立たないように
── カビラさんは幼少期を沖縄で過ごしたそうですね。
カビラさん:父がアメリカに留学中に出会ったアメリカ人の母と沖縄で結婚して、僕たち3兄弟は沖縄で生まれました。

那覇市首里で、大自然というよりは街の中心地でしたが、きれいな海や青い空の下で子ども時代を過ごしました。母は米軍の学校で教師をしていて、早く帰って来られる日には車で那覇空港近くのビーチに連れて行ってもらったのを覚えています。
その後、父が家を建てるために郊外に引っ越したのですが、周りに何もなく「ポツンと一軒家」状態。友達もなかなか遊びに来てくれないので、3兄弟で自然の中でずっと遊んでいました。木登りをしたり、秘密基地を作ったり。
── 当時の沖縄の街並みはどのような感じでしたか。
カビラさん:映画『ALWAYS三丁目の夕日』をイメージしていただけたらと思うのですが、舗装されていない道路があって、高度経済成長期の真っ只中という感じですね。そこに赤瓦の木造住宅や瓦葺きの屋根の家があり、台風の被害を抑えるため、だんだんとコンクリートの家が立ち始めていたころでした。
── 小さいころはどんな性格のお子さんでしたか。
カビラさん:地味な方だったと思います。本を読みふけっている子どもでした。ドリトル先生や怪人二十面相、シャーロック・ホームズや江戸川乱歩シリーズを読んでいました。クラスの中での立ち位置も、いわゆるリーダーシップをとるようなタイプではなく、なるべく目立ちたくないと思っていました。そもそも当時は、僕らのように外国人と日本人の親を持つ子どもは、あいのことか混血という言葉で表現されていました。母が肌の白いアメリカ人なので、そもそも見た目で目立ってしまうから、ほかではなるべく目立たないようにしようと意識していたのもあったと思います。
上級生や違うクラスの子たちから、アメリカとか混血、と言われたこともあったんですが、僕のことをよく知っている同じクラスの子や友達から言われたことはありません。母と一緒に公設市場で買い物をするときにも、そういう言葉がどこからともなく聞こえてくることがありました。だからといって母と出かけるのが嫌だと思ったことはないですし、差別を受けていたという被害者意識も生まれませんでした。