舞台を中心に活躍する俳優の古原靖久さん。若くして結婚した父母のもとに生まれ、ネグレクトのような過酷な状況で育ったのち、5歳で児童養護施設に預けられました。縁あって芸能界入りし俳優として活躍する姿を、お母さんが密かに応援してくれていたのを知ったのは亡くなったあとだったそうです。(全3回中の3回)
「やべえヤツだ」の数年後、ヒーロー役に抜擢
── 古原さんはお母さんが16歳のときのお子さんだそうですね。産後間もなくからネグレクトの状況が続き、古原さんは5歳から高校の卒業まで児童養護施設で暮らしたと伺いました。高校卒業と同時に施設を出て、芸能界に入ったいきさつを教えてください。
古原さん:高校生のころ、洋服店や駅のホームでスカウトされることがけっこうあったんです。でも、当時は本当に疑い深かったから、名刺をもらっても「嘘つけ」と思っていて。自分としては高校を卒業したら施設を出て、バイトしながら好きなこと見つけるつもりでいました。それが、卒業2週間前になって、就職か進学が決まっていないと施設を出られないと言われたんです。住み込みの新聞配達の仕事を勧められたけど、やりたくなかった。そこでもらった名刺に連絡したら、何社かは実在する芸能事務所だったんですけど、どこがいいのか決められなくて。最終的におじいちゃんの知り合いに芸能界に精通している方がいて、事務所を紹介してもらいました。

── お芝居に興味はあったのですか?
古原さん:それが、まったくなかったんですよね。でも『ごくせん』みたいな、やんちゃなヤツが先生から感銘を受けて頑張っていくような役ならできるんじゃないかと思って。『野ブタ。をプロデュース』という学園ドラマがデビュー作なんですが、実際に撮影が始まってみると、いろんな角度からまったく同じタイミングで同じセリフ、同じ表情を撮るというのが難しくて、どんどん僕のセリフが削られてしまって。それが悔しくて、周りの人たちの演技を見て、見よう見まねで覚えていきました。
── オーディションも大変でしたか?
古原さん:オーディションは、とにかく覚えてもらわないと意味がないと思ったんです。即興の短歌やシャドーボクシングなど、特技を披露する人が多いのですが、僕は特技がないから、それ以外で印象を残さないといけない。それで戦隊シリーズのオーディションで「ライダーになりたいんです」って変身ポーズをやってみたんです。そしたら「ライダーのオーディションに行けばいいんじゃない?」と言われて。当然ですよね。でもそこで、めげずに「そしたらライダーのスタッフに紹介してもらっていいですか?」って返したら、「おい、やべえヤツだ!」となって(笑)。でも結局、数年後には『炎神戦隊ゴーオンジャー』の主役に選ばれました。

── そんな経緯が(笑)。念願の子どもたちの憧れのヒーローになれたわけですね。
古原さん:ヒーローをやれたのはうれしかったです。子どものころから、絶対何かしらにはなってやろうと思っていたので。でも、当時は「エライと言われる人は何でエライんだろう。エライ社長も特別じゃない、普通の人なんじゃないか」と思っていました。僕が何よりも憧れていたのは自由。ずっと縛られた生活をしていたから、今の生活は自分に合っていると思います。
正直に言うと、芸能界に入ったら1年で売れると思ってたんです。でも、実際はそんな甘いものじゃなかった。でもなんとかご飯を食べていけて、YouTubeをやったりいろんな人と交流したりして、いろんな縁ができていくのが今はすごくおもしろいです。