「外の世界」への脱走が過酷な施設暮らしの支えに
── それは寂しかったでしょうね…。脱走するときは仲間と作戦を立てたり?
古原さん:脱走は基本、ひとりで考えてひとりで実行します。脱走するってことを誰かに伝えるとバレちゃうんです。チクってポイントを上げるヤツがいるから。最初のころの脱走は正門から出ていましたが、先生にすぐバレるんです。なので庭のフェンスの死角になる場所を見つけ、下のほうを自分でペンチでくり抜いて、そこから抜け出してました。1回だけ脱走の途中に先生と目が合って、たまたま近くに転がっていた野球ボールを拾いに来たと言って事なきを得たこともあります。本当に「リアル脱出ゲーム」みたいな生活でした。
── 脱走したときは、どんなことをしていたんですか?
古原さん:町で知り合ったお兄さんお姉さん、学校の先輩とかと遊んでました。ゲームセンターや飲食店で知り合った人が多かった。かくまってくれる人はたくさんいたんです。僕が児童養護施設にいることを話していたので、先生から電話がかかってきても「いない」と言ってくれた。「いつでも来ていいよ」って言ってくれた飲食店のお姉さんにはすごくお世話になったし、特に仲よくなったひと回りくらい年上のお兄さんとは今でも連絡を取り合う関係です。
── 過酷な生活のなかで、外の世界が支えになっていたんでしょうね。
古原さん:それは大きいですね。児童養護施設の門限が夕方の6時だったので、僕たちは外の世界の夜を知らなかったんです。脱出するのはたいてい夜の9時ごろでしたが、外に出ると繁華街のほうに明るい光が見えて。お祭りでもやってるんじゃないか、すごく楽しそうだなと思ってたんですよ。だから抜け出したいと思ったっていうのもあります。夜の世界って新鮮で刺激的で楽しくて。今でも夜の9時以降に外に出るとワクワクする。自由になった!みたいな。結局、ずっと子どものままなんです。
施設には『週末里親』という制度があって、小学校高学年まで月に1、2回ボランティアの里親家庭で過ごしていたんですが、そこではめちゃくちゃよくしてもらいました。でも、いい人たちだからこそ、いい子にしなきゃという気持ちもあって。養護施設ってよくも悪くも刺激的。何も起こらない平穏な一日より、そういう意味では僕の性格に合っていたのかもしれません。
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児童養護施設での暮らしは18歳でひと区切りを迎えたものの、将来のビジョンが持てずにいた古原さん。就職か進学が決まっていないと施設を出られないと言われ、それほど興味がなかったにもかかわらず、勢いで芸能界に足を踏み入れます。そこからお芝居の魅力にハマっていき、現在の活躍に至ります。
取材・文/原田早知 写真提供/古原靖久