2021年の東京五輪に出場した相澤晃さんは中学1年の冬、東日本大震災で被災。その後は陸上を心の支えに、大学時代は箱根駅伝に出場し、現在は旭化成で活躍しています。近年は度重なる怪我に悩まされながらも、心が折れそうなときにはあるマインドが自身を支え、奮起させてくれていると言います。(全2回中の2回)
震災後の11月 ふくしま駅伝で見た柏原選手の走りに
── 相澤さんは小学生のころに「円谷ランナーズスポーツ少年団」で陸上を始めています。そもそもなぜ陸上競技を始めようと思ったのですか。
相澤さん:実は昔はすごく足が遅くて太っていました。それで母が運動をできるように、走れるようにと僕をクラブに入部させて(笑)。正直、小学生のころは陸上がまったく好きじゃなかったし、楽しいとも思わなかったですね。でも、中学生のころから陸上の楽しさを知り、徐々にのめり込むようになったんです。
── 中学卒業後は地元の長距離の名門・学法石川高校へ進学。卒業後は箱根駅伝の常連でもある東洋大学へ進みました。
相澤さん:駅伝に対しての強い憧れを抱くようになったのは中学2年のころでした。東日本大震災があった2011年の11月に福島県内を縦断するふくしま駅伝に箱根駅伝のスターで、同郷・いわき市出身の柏原竜二さんが出場していたんです。柏原さんの闘志溢れる走る姿からはすごく勇気や感動をもらいましたし、いつかは自分もそういう存在になりたいと思うようになりました。柏原さんは震災翌年の2012年、箱根駅伝5区の山登りで4年連続区間賞となる力走を見せ、東洋大を総合優勝へと導いたんです。柏原さんやチームの走りは当時の僕の大きな励みでしたし、東洋大を目指す大きなきっかけになりましたね。

── 東洋大学時代は2年生から3年連続箱根駅伝に出場。4年時にはエースが集まる花の2区を走って、11年ぶりとなる区間記録(当時)も樹立するなど大活躍でした。
相澤さん:大学1年時は怪我や体調不良で思うような走りや結果を出すことができず歯がゆい思いばかりでした。1年時にも箱根駅伝で2区にエントリーされたんですが、体調を崩してしまって当日変更に。結局、出場することができなかったんです。自分の走りを箱根駅伝などで見てもらえるようにもっと頑張らないといけないと悔しい思いでいっぱいでした。
故郷・福島県代表のアンカーとして襷をつなぎ
── 3年生のころからエースとして活躍し、4年時にはキャプテンも務めていました。
相澤さん:練習のときからほかの選手には負けられない、自分が走らないという意識はすごく強かったですね。だからいつもきついところで引っ張ったり、先頭を走っていました。それがキャプテンとして、そしてエースとしてチームを引っ張るという意思表示だと思っていたので。
大学時代にもうひとつ印象に残っているのが3年時(2019年)に出場した第24回都道府県対抗男子駅伝です。故郷・福島県代表のアンカーを務めさせてもらったんですが、郷土の先輩方が繋いでくださった襷をかけ、先頭でゴールできたときは感慨深かったです。感動を与えるような走りができたかわかりませんが、自分としてはやっと福島に貢献することができたと思いがあって。こみ上げてくるものがありましたし、あらためて地元の方々に応援して支えられていることも痛感したんです。
2022年からは地元で僕の名前を冠にした駅伝大会を開催していただいているんですが、それも本当にありがたいことで、支えてくれている方々に恩返しできるような走りをこれからも見せていきたいと思っているんです。