県内に原発があることすら震災前は知らなかった

── 翌日には福島第一原発の事故もあり、さらに日常に戻るのもかなり時間がかかりそうだと悟ったと思います。

 

相澤さん:たしか地震の後は春休みのような感じでしばらく学校はなかったですね。約1か月後に再開しても、原発の事故があったので、屋外での活動は制限されていましたし、校庭には放射線測定器が置かれていましたし、影響を心配する声もありました。当時、僕はすでに陸上をしていたので、最初は外で走ることが怖かったですし、果たして陸上は続けられるのかなと考えたこともありました。

 

── 相澤さんが住んでいた場所は福島第一原発まで90kmほど離れていたとはいえ、同じ福島県内での出来事。衝撃はかなり大きかったですよね。

 

相澤さん:実は震災前までは県内に原発があることすら知りませんでしたし、原発の知識もほとんどありませんでした。僕に限らず、誰もがまさかあんな事故が起こるとは想像もしていなかったと思います。でも、震災後はニュースも、避難所での会話もその話題ばかり。事故後の映像を見るとインパクトが大きすぎて…。数か月経った後に、陸上の大会であの周辺地域に住んでいた選手と話をするとやっぱりその話題ばかりでしたね。

 

── その後、震災の経験がフラッシュバックしたりトラウマになることはありませんでしたか。

 

相澤さん:何年経っても原発の事故や津波の映像を見ると怖いです。僕は大学時代に輪島に滞在中に地震があったり、社会人になってからも奄美にいたときに地震が起こったりと、津波や地震を経験することが多かったです。やっぱりスマートフォンの警報が鳴るたびにいまだにドキッとしてしまいます。

コロナ禍の東京五輪、能登地震で「走る」意味と向き合い

── 東日本大震災当時、相澤さんは円谷ランナーズスポーツ少年団で陸上競技をしていました。当時は陸上競技とどのように向き合っていましたか。

 

相澤さん:陸上はつらい気持ちや悲しさを忘れさせてくれるほどまではいかないけれど、走っているときだけはいやなことを考えず、走ることだけに夢中になれました。震災が起こる前は実力的に全国を目指せるようなレベルではなかったし、それほど真剣に打ち込んでいなかったような気がします。

 

震災後、いわき市をはじめ被害の大きかった地域の選手たちは避難所生活を強いられていて陸上どころではなかった。でも、自分たちの地域はいわき市などに比べれば被害が少なく、陸上ができる環境だった。そのとき、適当に競技をしていたら避難している人たちに申し訳ない、時間をムダにしてはいけないなと強く感じて。陸上により真剣に向き合えるようになりました。

 

── 被災した経験は相澤さんが陸上競技を続けるうえでも大きなターニングポイントになったんですね。

 

相澤さん:東日本大震災までは陸上に対して深く、ストイックに考えたことはありませんでしたが、震災を境にして一気に意識が変わったと思います。本当に些細なことですが、練習前後にストレッチをして体のケアをしたり、体重管理のために給食のデザートを友達にあげたり。真剣に陸上と向き合うようになると、中学2年で東北大会、中学3年には全国大会に出場と結果もついてくるようになったんです。

 

福島・須賀川中時代には全国都道府県駅伝で福島県の2区を務めたことも

── 震災後に練習を再開したときに本当に陸上を続けてもいいのだろうかと葛藤することはありましたか。

 

相澤さん:当時は中学生だったので、正直そこまで考える余裕がなかったかもしれません。でも昨年の1月1日の能登地震があらためていろいろと考える機会になりました。地震があったのはニューイヤー駅伝のレース後ではあったのですが、有事に走っていていいのだろうか、と。ただ、そういった状況で僕たちができることは何かとえたとき、思いを届ける走りをすること、見ている人たちが勇気をもてる、元気をもらえることではないかということも再確認したんです。

 

── 相澤さんが日本代表として出場した21年の東京五輪でもコロナ禍の開催で賛否両論の声がありましたよね。当時は複雑な思いを抱えていたと思います。

 

相澤さん:もちろん開催してほしくないという人の気持ちも理解できました。こんな非常時に何をやっているのかという思いも。そういった有事でも、震災のときもスポーツを通して元気や勇気を与えることに賛成じゃないという人もいるかもしれません。ただ、僕たちは「走る」ことが仕事のひとつでもあるし、実際にスポーツが心の支えになる方々もいる。そこはお互いの気持ちを理解し合い、尊重し合うことがものすごく大切だと思いながら、当時は走っていましたね。

 

 

PROFILE 相澤 晃さん

あいざわ・あきら。1997年7月18日福島県生まれ。小学生の頃に陸上を始める。学法石川高時代は3年間連続で全国高校駅伝に出場。を経て、東洋大学へ進学。箱根駅伝では3年時に4区で、4年時に2区で区間新記録(当時)をマークした。卒業後は旭化成に進み、21年の東京オリンピック代表として10000mに出場した。

 

取材・文/石井宏美 写真提供/相澤晃