陸上の男子10000mで2021年の東京五輪に出場した相澤晃さんは中学1年の冬、東日本大震災で被災。福島県・須賀川市の実家で震度6強の地震に見舞われ、ダム決壊による濁流から必死に逃れました。震災後、相澤さんは陸上を心の支えに競技を続けてきたといいます。(全2回中の1回)

日常のすべてが当たり前でなくなった

── 今年も間もなく、東日本大震災があった3月11日が訪れます。

 

相澤さん:自分にとってひとつのタ―ニングポイントになりましたし、27年の人生のなかでいちばん衝撃を受けた出来事でした。14時46分、あの日のことは絶対に忘れないし、忘れてはいけないと思っています。

 

── 地震が起こったときはどこにいて何をされていたのでしょうか。

 

相澤さん:学校から帰宅して、昼食を食べ終えたころに突然、激しい揺れに襲われました。どこかにつかまっていないと立てないほどで、部屋にあった本棚や食器棚が倒れてきて。その後、僕が住んでいた須賀川市内の藤沼ダムが決壊して、一気に水が流れてきました。とても怖かったし、そのときはさすがに命の危険を感じました。近所の人の軽トラックの荷台に乗せていただき避難したのですが、一緒に暮らしている祖母は足が悪く一緒に逃げることができなかったんです。

 

箱根駅伝には2年生から3年連続出場。4年時は学生三大駅伝ですべて区間賞を取った相澤選手

── 地震直後はおばあさまと一緒に避難できなかったんですね。「あなただけでも早く逃げなさい」という状況だったんですか。

 

相澤さん:大きな地震で動揺していて、祖母と話し合う余裕すらなかったですね。とにかく自分が逃げることしか考えられなかった。でも、避難した後も祖母を残してきたことが気になっていて…。水が引いて自宅に戻ったときに2階に避難していることを確認できたときは本当にホッとしました。

 

── 地震の後のご自宅や周辺地域はどのような様子でしたか。

 

相澤さん:いったん家に戻って、玄関に手をかけたのですが、歪んでいて開きませんでした。蛇口からは濁った水しか出ません。家自体は川からは少し離れていて大きな被害はなかったのですが、上流の方にある家屋の多くが流されていました。そのなかには小学校時代に一緒に通っていた方が犠牲になっていて、お葬式にも参列しました。何とも言えない気持ちでした。

 

── ご自宅に大きな被害はなかったとはいえ、浸水してすぐに住める状態ではなかったと思います。その後はどのように過ごしていたんですか。

 

相澤さん:母と祖母と避難所で3日ほど過ごしました。広いスペースで雑魚寝するような感じでした。その間に何度も余震があって、特に夜になると「この揺れがまた来るのかな」という恐怖が拭えなかったです。避難所にいる間はお風呂には入れなかったので、濡らしたタオルで体を拭いていました。食事もはじめはおにぎりだけ。それまではあまり深く考えたことがなかったけれど、3食食べられることも、お風呂に入ることも、日常生活のすべてが当たり前ではないということを痛感しましたね。