人生を諦めてしまっていた妊婦との出会い
── 妊産婦さんたちへの支援で印象に残っていることはありますか?
佐藤さん:沿岸部のサロン活動で出会ったひとりのママさんが印象に残っています。その方はご主人が日中パチンコに行き、妊娠中も産後も、ご主人に気を使いながら、慣れない育児に奮闘している方でした。何度もお会いしているうちに、いろいろとお話ししてくれるようになりました。

いちばん悲しかったのは、彼女が「私なんていいんです。どうせ誰もわかってくれない。どうなってもしかたないんです」って人生を諦めてしまっていたことです。彼女にとっては、結婚して子どもが生まれても、実家も夫も安心できる存在ではなかった。「この先、彼女は誰を頼っていけばいいのだろう」とすごく心配でした。
私は「この人をひとりにしちゃいけない」と、つながりを続けたいと思いました。たぶん、昔の自分と重なったんだと思います。私が小学6年生のころに両親が離婚して、母親は家を出ていき、父親は遠方へ転勤になり、離れて暮らしていました。祖父と妹と同居していたものの、当時は気持ちをわかってもらえる人がおらず、家には居場所がない状態でした。そんな昔の自分と人生を諦めた彼女とが重なって、「私は、これからもこの人と会っていかなければ」と。彼女が「あぁ疲れた。甘いものが食べたいな」って、ポロッとこぼせるような場所をつくりたいと思いました。
そのまま、今のNPO法人まんまるママいわての前身となる、妊産婦さんの産前産後ケア活動を始めることに。それから10年は、あっという間に過ぎていった感覚です。
── 赤ちゃんが生まれて幸せそうに見える家庭にもいろんな事情があるのですね…。ましてや震災という不安定な状況のなか、安心して帰れる場所がないとなると、妊産婦さんたちは本当に不安だったと思います。
佐藤さん:私が出会った妊産婦さんたちのなかには、私たちのような外部の人間に世話をされる場所に行くこと自体を家族から禁止されていた人もいたようです。「わが家の秘密を知られてはいけない」というような気持ちが働くということなのか…。災害時は課題先進といわれますが、そういった支援につながりにくい家庭の事情が一気に噴き出して、私たちの被災妊産婦受け入れ事業でも「そんなところに行くな」と家族に止められたという妊産婦さんたちがいました。支援が必要な人ほど、交流を持つのは難しいんです。このときは皮肉にも、大きな災害が起きて奇跡的に何人かと出会えたという状況でした。

32歳で被災して14年が経ちました。もし震災がなかったら、私が立ち上げた産前産後ケアの事業は大きく育つこともなかったかもしれません。そう考えると、私の30代はまさに助産師としての仕事に捧げた10年間だったなと思います。