少子化により右肩下がりの黒板業界にあって、5年で3倍の増収を達成したのが老舗メーカーのサカワ。新商品開発で新風を巻き起こし、32歳で4代目に就任した坂和寿忠さんは、その経営手腕を社内改革にも発揮します。(全2回中の2回)
後継の息苦しさと葛藤「反発は常にあった」
── 愛媛で100年続く老舗の黒板メーカー「サカワ」の4代目社長・坂和寿忠さん。幼いころから「ゆくゆくは4代目に」と嘱望されてきたのでしょうか?

坂和さん:そうですね。ずっと期待を背負ってきたところがありました。僕は姉が2人いて、3人きょうだいの末っ子で長男です。男の子の僕が生まれたときは相当うれしかったと、親から聞いています。生まれた時点で「将来はこの子が社長に」と決められていて、名前を「黒板」にしようという話もあったみたいです。さすがにそれはちょっとかわいそうだからということで「寿忠」になりました。ただ、この「寿忠」という名前も、創業者である曾祖父の名前「富忠」と、前社長である祖母の名前「寿々子」を一文字ずつもらったものなので、それなりに重たいものがありました。
── 反発はなかったですか?
坂和さん:もうめちゃくちゃありました。親の期待に対して息苦しさはずっと感じていたし、跡取りになるということへの葛藤はつねにありました。高校生のころは考古学に興味があって、大学で研究をしたいと思っていたんです。だけど、その夢は当然のように親には聞き入れてもらえませんでした。自分自身、親を悲しませてまでするほどの夢じゃないかもしれないと思ってあきらめました。高校卒業後は上京して、東京の大学の建築学科に進んでいます。黒板は学校を建てる段階で納品することがあるので、建築は学んでおいて損はないだろうという親の勧めです。でも、自分としては建築にはさほどおもしろみは感じませんでしたね。
価格競争しかない業界への危機感を抱きながら入社して
── 大学卒業後、サカワに入社されています。4代目社長への第一歩ですね。
坂和さん:平社員としてスタートしました。僕としてはみんなとなじみたいけれど、どうしても気をつかわれる存在だったし、やりにくさはありました。ただ、そのころ東京支店の立ち上げを任され、本社の愛媛を離れて、ひとり東京で働くことになりました。みんなと離れたという意味ではよかったかもしれません。会社が新しく電子黒板を扱いはじめたタイミングで、僕がその担当になって営業に力を入れていきました。新卒でしたが、電子黒板はまだ詳しい人が誰もいないだろうから、頑張ればいちばん業績をあげられると思って。実際、デジタルが得意な社員はほかにいませんでした。アナログのメーカーって、新しいものに対する抵抗感がすごくあるんです。
だから、かなり頑張りました。学校のほか、区役所の入札にも参加して、トップセールスを記録しました。そのあたりから「4代目は肩書きだけじゃないぞ」と、周りの見る目がちょっと変わったように感じます。
──「4代目として認められなければ!」という気持ちが原動力だったのですか?
坂和さん:それもありましたけど、何より本業である黒板に対する不安が大きくて。入社してすぐ思ったのが、この先ずっと黒板でやっていけるのだろうか、ということでした。黒板は、書いて、消せて、せいぜいマグネットが貼れればもう十分。機能は昔からそんなに大きく変わってなくて、どこの黒板も大差ありません。そうなると値段くらいしか勝負するところがない。少子化もあって、価格競争が激化の一途を辿っていました。
学校の新設が盛況だったころは黒板屋も景気がよくて、手が回らないくらいだったと聞いています。でも、この30年でどんどん衰退していった。全国に黒板屋が150社くらいあったなか、いまは30社ほどです。僕がサカワに入社した時点で、すでにかなり安価な値段でないと売れなくなっている状況で、黒板屋としてこのまま黒板を安く売り続けていくのはマズイのではないか、という焦りがありました。

── そんななか黒板用アプリ「Kocri(コクリ)」の開発で大きな注目を集めています。
坂和さん:当時扱っていた電子黒板は多機能ですごく複雑で、みなさん買ってくれはするけれど、先生が使いこなせていない。結果、埃をかぶっちゃうようなことが多々あって。ならば「もっと先生たちが使えるものを作ろう」と思ったのが開発のきっかけでした。
ちょうど東京駅のプロジェクションマッピングが始まった年で、そこからヒントを得ています。古いものが映像で新しいものと融合して、生まれ変わる。東京駅の駅舎も100年の歴史があって、そこにもシンパシーやビジネスのヒントを感じました。「Kocri」には図や絵などの素材がいろいろ入っていて、プロジェクターにつないで黒板に映像を投影することで、先生がいちから板書する手間を省けます。評判を呼んで、累計約18万ダウンロードを記録しました。
さらに「Kocri」の誕生から1年後に、プロジェクター「ワイード」を開発しました。それまでのプロジェクターは黒板の3分の1程度しか映像を映すことができなかったんですが、「ワイード」は黒板の左右幅まで映し出すことができます。先生方に非常に好評で「こういうのが欲しかったんだよね」と言っていただいています。