「お金が入ったら何かしたい」で始めた訪問介護サービス事業は大赤字のまま、3年で事業から撤退した内山信二さんは、「経営は向いていませんでした」と断言。いま支えてくれる人への感謝の声が、自然と口に出ました。(全5回中の5回)
「お金を持つと何かしたい」で介護サービス事業に進出
── 芸能活動と平行し、一時期、訪問介護サービスの会社を経営されていました。社長業に乗り出したのはなぜでしょうか?
内山さん:正直、あのころはお金があったんですよね。やっぱりお金を持つと、なんかしたくなっちゃうんです。6歳のとき『あっぱれさんま大先生』に出て、一時はもてはやされたけど、番組が終了したら一気にどん底までいって。16歳〜18歳までは本当に仕事がなくて、バイトもしたし、電気・ガス・水道を止められたこともありました。お腹がすいて、生米をかじって、飢えをしのいだことも。ただ、『debuya』や『ごくせん』をきっかけにまた仕事が回り出して、お金が入るようになってきました。
それで何かできないかと考えたんです。あれだけ転落したのに…悪いクセです。介護訪問サービスは僕が社長で、兄貴と知り合いの3人で始めました。21歳のときです。ただ、芸能界の仕事もあったので、実質的な運営は兄とその知り合いに任せていました。
── なぜ介護訪問サービスだったのでしょう。
内山さん:もともと僕はおじいちゃん子で、それがまず大きかったですね。一時期おじいちゃんにヘルパーさんを頼んでいたけれど、その方の対応にちょっと不満を感じるところがあって。ちょうど当時は、介護の現場で虐待のニュースが話題になったり、騒がれたときでもありました。たまたま知り合いが介護の免許を取って、兄は兄でちょっと違うことをしてみたいと言っていて、じゃあ介護サービスをやってみようかという話に。とりあえず僕がお金を出すから、兄とその知り合いは介護事業所で働いて1年間、実践を積んでから介護サービスを始めよう、と決めてスタートしました。
僕は介護の知識は何もなかったけれど、そこで2人が知識をつけてくれれば、という気持ちでした。ただ、やっぱり経営はそんなに甘いものじゃない。いま考えれば当たり前ですけどね。でも当時21歳だった僕にはわからなかった。本当に勢いだけ。金はある、でも介護経験も経営経験もない。そんな人間がやっていけるほど生ぬるい世界ではないです。実際ずっと赤字でした。