15歳年下のご主人は、ブル中野さんの現役時代を知りません。つきあって間もないころ、彼女の過去に気づかないなか、ある日…彼が悩んだ様子で酔っぱらって電話をかけてきました。(全5回中の4回)
実家の近くにあったムエタイのジムで運命の出会い
── プロレスラーを引退後、アメリカで9年間、ゴルフのプロテストへの挑戦を経て、帰国したブル中野さん。その後はどんな生活を?
ブル中野さん:実家に戻ると、レスラーを引退したとき同様、「何もしなくていい。働かなくてもいいから、とにかくゆっくりしなさい」と家族に言われました。
そんなとき、ちょうど実家のそばにたまたまムエタイ(タイの格闘技)のジムがあって、ガラス越しに見えたリングが懐かしくなりました。ジムの女性向けダイエットプログラムに通い始めたんです。このとき、15歳年下の主人と出会いました。
── ご主人は、最初からブル中野さんだと知っていたのですか?
ブル中野さん:いえ、知りませんでした。レスラー現役時代は100キロを超えていた体重も、減量して60キロ前後になり見た目も変わっていたからでしょう。
つきあいはじめて「仕事は?」と聞かれて、プロレスラーだったことを言いたくなくて「仕事は何もやったことない」と答えたんです。
主人は「40歳過ぎて働いたことがないなんて、実家がよほどの大金持ちか、裏の世界かどちらかだ」と不審に感じたそうです(笑)。
── 過去について話したのは、ブル中野さんから?
ブル中野さん:不思議に思った彼が、私の本名「中野恵子」をネット検索したそうです。するとたまたま、プロレス界の大勢が集まる機会に撮った写真がヒットしたようで、「これだ!」と思ったんでしょうね。
彼はすごく悩んだみたいで、かなり酔っぱらった状態で朝の5、6時ごろに電話をかけてきて「1個聞いていい?もしかして昔、ブル中野だったの?」って。「うん、そうだよ。ちょっと話そうか」となりました。
彼は15歳年下なので、私の現役時代を知りません。かろうじて、名前や悪役だったことを知っている程度。がっつりプロレスファンの人でなくてよかったです。あまりプロレスを知らないほうがやりやすいです。
── プロレスを知らないほうがよいとは、どういう意味ですか?
ブル中野さん:彼がプロレスファンだったら、結婚しなかったと思います。好きだって言われても、それはプロレスラーとしてであって、私自身じゃないですよね。
「レスラーが接客」開いたガールズバーが人気店に
── 2010年に結婚してからは、どんなことを?
ブル中野さん:しばらくは小料理屋の雇われ女将をやって、その後、2011年に自分で東京・中野にプロレスファン向けのガールズバーを開きました。従業員は、元プロレスラーや現役の選手などです。
── ガールズ婆バー「中野のぶるちゃん」ですね。美人ママとしてよくメディアにとり上げられたり、中野区観光大使をされているのを拝見しました。接客業は得意なんですか?
ブル中野さん:いや、向いてなかったです。はじめは何もできなかったんですけど、その前に小料理屋で雇われママを経験して、「お店ってプロレスと同じかも」と感じたんです。
私がやってきたなかで自信があるのはプロレスしかないので、すべてを「プロレスだったらこうする」と考えることにしました。
── プロレスのどんなことを参考にしたのですか?
ブル中野さん:例えば3000円のプロレスチケットがあるとします。お客さんが、イベントに3500円の価値があると感じたら、もしかすると次もまた来てくれるかもしれない。
でも、2500円の価値しかないと思ったら絶対来ない。出した金額を少しでも上回る価値を感じてもらえたら、次は友達を連れてくる可能性はあります。こうして1人のお客さんが、新たにもう1人を連れてきてくれれば、翌年にはお客さんの数は倍になります。
これでやっていこうと決めました。うちの店で1万円払うなら、おいしく楽しく発散できて、明日からまたがんばろうって思えて、1万円以上の価値を感じてもらいたい。
── 経営者の視点ですね。ほかにはどんな工夫を?
ブル中野さん:「広い層向け」ではダメだと思いました。何かに特化しないと勝てません。私が勝負できるのはプロレスです。元レスラーや現役レスラーが接客して、プロレスファンだけが来るお店にしました。
価格帯もまわりのお店とは異なります。とくに東京・中野は、1万円あったら3000円の安いお店を3軒まわる感じのお客さんが多かったんです。
これではダメだと、うちの店では1回の来店で2~3万円は当たり前で、プロレスが好きで私に会いたい人しか入れないようにしました。高くても、私たちの価値をわかってくれるお客さんだけが来るお店を目指したんです。
── そうした工夫のかいもあって、「中野のぶるちゃん」は有名店になり、繁盛しました。しかし残念ながら、コロナ禍に閉店してしまいました。
ブル中野さん:コロナの1年くらい前に私が肝硬変になってしまったんです。昔からお酒が大好きで、家でひとりでも飲んでいたくらい。「飲む場所が好き」「雰囲気が好き」と言う人がよくいますが、私はお酒自体が好きでした。
自分でも肝臓がよくないのはわかっていたんですが、身体をだましながらしばらくお店を続けていました。でも、肝硬変だとわかり、閉店しました。
未経験が一番怖い「なんでもやれば怖さはなくなる」
── 現在は、どんなことを?
ブル中野さん:いろいろやっていますよ。トークショー、講演活動、プロレスの解説、プロレス団体「SUKEBAN」のコミッショナー、ゴルフ関係、番組MCや結婚式の司会もします。
仕事が入ったときは「なんでもやってみよう」の精神で。はじめてのときは、何をどうすればよいかわからないし、どうがんばっていいかわからず怖くてたまりません。でもやってみると、緊張する、怖いなんて言ってはいられないと悟りました。
例えば結婚式は、ご夫婦にとって一生に一度のことだし、司会未経験の私の事情なんて関係ありません。ご夫婦がいい結婚式を迎えるために、私はなんでもすると覚悟を決めました。
一度経験すれば段取りがわかるので、怖くなくなります。やはり、無知が一番怖いです。とにかく、怖いことをなくしたいんですよ。
私はプロレスとゴルフの経験しかないから、これからの人生でも、知らないこととたくさん出合うはずです。でも、声をかけてもらったお仕事は全部やるつもりです。
── その心意気はすばらしいですね。
ブル中野さん:ようやく、いろんな仕事をしながらわかることもあるんですよね。もう56歳なので、本当は怖い思いはしたくないですよ。本来なら、この歳になる前に何もしなくてもお金が入る仕組みを自分で作るべきでしたが、そうはいかなかったので、これからも挑戦しかないですね。
プロレスの仕事もしていて、そこは私にとって居心地のいい場所なんですが、そこに安住していたら向上しません。
── 守りに入らず、挑戦を続ける。どんな経験もムダにはなりませんね。
ブル中野さん:本当にそうです。プロレス時代の貯金を使いながらアメリカで9年間修業したものの、プロテストに合格できませんでした。でも、いま、ゴルフの仕事もしています。ゴルフは人間性が出るスポーツですし、ゴルフを通して学んだことも本当に多いです。
PROFILE ブル中野さん
1980年全日本女子プロレスに入門、1990年代に悪役として頂点を極める。米国のWWF世界女子王座を日本人として初めて獲得する他、WWWA世界シングル王座獲得多数。YouTubeチャンネル「ぶるちゃんねる」で多くのレスラーと対談中。
取材・文/岡本聡子 写真提供/ブル中野