未経験での業界や職種への転職は難しい。ましてや年齢を重ねていたら…。そんなイメージを覆すのが弁護士の海老澤美幸さんです。
キャリア官僚、編集者、ファッションエディターを経て、現在はファッション業界に特化した弁護士として働く海老澤さん。
ファッションが大好きだったオリーブ少女が、法律でファッション業界に関わる道を見つけるまでの歩みをひもときます。
ファッション業界の悪習を変えたい
── ファッション業界でエディターやスタイリストとして働いていた海老澤さん。弁護士に転向したきっかけは?
海老澤さん:
いろいろあるのですが、ひとつのきっかけは二次使用に対する違和感ですね。
私がエディターとして働いていた頃は、雑誌のために撮影した写真を、ポスターや電車の中吊り広告などに流用する二次使用がしばしば行われていました。
カメラマンには著作権が、モデルには肖像権があるので、二次使用の際に二次使用料が支払われます。他方、現場をコーディネートしたエディターやスタイリスト、ヘアメイクなど、それ以外のスタッフには明確な権利がない。そうしたスタッフには二次使用料が支払われないこともありましたし、そもそも二次使用について知らされないことも。
あとは、深夜労働が多く、パワハラやセクハラも見聞きするなど、労働環境がよいとはいえなかった。何とかしたいと思っていました。
── 弁護士に相談しなかった?
海老澤さん:
「何とかしなくては」「弁護士に相談したほうがよいのでは?」と思うものの、当時、ファッション問題に詳しい先生が見つからなくて。
「ファッション業界に精通した法律家が一人くらいいたほうがいいのでは」という意識がむくむくと膨れ上がっていって、そのうちに、「よく考えたら私、大学で法律を学んでいたな」と思い出したわけです。
── 思い出した(笑)。
海老澤さん:
ええ(笑)。それでファッションの仕事は中断してロースクールに2年通い、2度目の司法試験で合格しました。
でも当時、私が知る限り、ファッションを専門に手掛ける法律事務所はほとんどなくて…。
そんな中、「ファッションローをやりたい」とアピールし続けていたら、少しずつ共感してくださる方や同志に恵まれて、今に至っています。
ファッションローという分野もだんだんと認知されるようになり、今や人手がたりないほどの需要があります。ファッション業界のあり方に課題を感じていた人たちが、それぞれに活動を重ねてきたことが、実を結びつつあると感じています。
キャリアより楽しさを重視していた学生時代
── どんな学生時代でしたか。
海老澤さん:
私、中学生のころからファッションが大好きだったんです。雑誌『Olive』や『CUTiE』を愛読するオリーブ少女でした。
母親の若い頃の服を引っ張り出してよく着ていました。高校の学校行事では衣装係をやったりして楽しかったなぁ。高校卒業後の進路は、ファッションの専門学校も選択肢にしていましたね。
でも、親にファッションの道の厳しさを諭されて、結局、内部進学で慶應大学の法学部に進みました。
そのときは弁護士になるなんてまったく想像していませんでした。弁護士を目指している周りの友人たちはとにかく優秀で、自分も一応勉強を始めてみたものの全く歯が立ちませんでした。私はダンスサークルや、外資系百貨店のバーニーズニューヨークでのアルバイトに励んでいましたね。
── 学生生活を謳歌されたわけですね。
海老澤さん:
そうなんです。でも大学3年生で、ふと気づいたら民間企業の採用はほとんど終わってしまっていて。慌てて調べたら、その時点で残っている道が公務員だったんですよね。
そこから公務員試験対策の勉強をスタートし、ラッキーなことに当時の自治省(現在の総務省)から内定をいただきました。
当時はまだ女性のキャリア官僚が少ないころ。それもあってか、入省後は、自治省でも、出向先の岐阜県庁でも、すごく大切に育ててもらいましたね。
「趣味じゃダメなのか」と言われても
── 官僚として順調なスタートをきったのに、なぜ異業種に転職したのでしょう。
海老澤さん:
出向先は、かつて繊維産業で栄えていた地域で、繊維産業についての話を聞く機会が多かったんです。そのうちに、忘れかけていた「ファッション関係の仕事をしたい」という気持ちがよみがえってきて。
今思えば、官僚としてファッションを鍵に地方を再生するという道もあったと思うのですが、当時はそこに全く頭がいきませんでした。
それで、ファッション関係の転職先を探し始めました。たまたま新聞で募集要項を見つけたある出版社に、ファッション雑誌編集者として採用されることになりました。
── ご両親はもちろん、周囲の方々も驚かれたのでは。
海老澤さん:
転職は誰にも相談せず、すべてひとりで決めました。両親にも事後報告。
娘が公務員になって安心していた両親はとてもショックを受けたようです。父親からは長文のFAXが届きました。そのFAXは今でも読まないままとってあります。
上司には「ファッションは趣味じゃ駄目なのか」とも。
でも、趣味ではなく、24時間やりたかった。仕事の時間は長く、ある意味人生の大半を占めるわけですから、官僚の仕事をしながらというのは自分には無理だと思ったんですね。
ファッションローにつながる英国での気づき
── 出版社で4年ほど編集職をされた後、渡英されるんですよね。
海老澤さん:
ファッション誌の編集はとても面白い仕事でしたが、日本のファッションエディターの多くは、企画をもとに撮影やスタッフなどをコーディネートして誌面をつくるのが仕事。雑誌に載せる服や小物のセレクトは、編集者というよりスタイリストの領域なんですね。
私はとにかくファッション写真やストーリー、ページを作るのが好きだった。服や小物はファッション写真やストーリーの重要なカギになるので、「自分で服や小物をコーディネートしたい」という気持ちが強まっていきました。
そのタイミングで「海外では、ファッションエディターが服や小物のスタイリングを担当する」ことを知り、海外に行くことにしました。
まずは英国のロンドン・カレッジ・オブ・ファッションに留学。それを足掛かりに、現地でスタイリストのアシスタントにつきました。
── 異国の地で仕事を見つけるのは、大変だったのでは?
海老澤さん:
当時はネット情報もなかったので、学校の図書館にあった、スタイリストの情報が掲載されているアドレスブックを片手に手当たり次第に履歴書を送りました。
周りにも「アシスタントにつきたい」と話していたところ、友人が「知り合いのスタイリストがアシスタントを探してる」と紹介してくれて。そうやって見つけたアシスタントの仕事を、2年弱やりました。
いろいろな撮影現場に同行させていただいたり、プレスルームに貸し出しに行ったり、パリコレのバックステージの取材を手伝ったり。本当に貴重な経験でした。
帰国後はファッションエディター・スタイリストとして、思い描いた通りの仕事ができるようになりましたね。
── 海外と日本では、師匠とアシスタントの関係性が違うそうですね。
海老澤さん:
海外では師匠とアシスタントの関係が割とフラットで、服のセレクトなどもまるごとアシスタントに任してくれたりします。
一方、日本では徒弟制度的というか、上下関係がはっきりしている印象。特に、私がエディターとして働いていた2000年代初頭は、まだまだそうした関係性が強く、もちろんよい面もあるものの、パワハラなどの事例も見聞きしていました。海外でのアシスタント経験を通して、日本での関係性との違いをより強く感じるようになりました。
理想とするファッションの仕事を手にしましたが、こうした気づきや冒頭お話ししたような思いが、弁護士を目指す道につながっていきましたね。