一日100食限定で、国産牛を贅沢に使ったステーキ丼を提供する京都の「佰食屋」。国産牛を贅沢にのせたステーキ丼をリーズナブルに提供し、国内外から多くのファンを集めてきましたが、新型コロナウイルス感染拡大の影響は免れませんでした。
観光客の激減によって一気に赤字へと転落し、2020年4月には4店舗のうち2店舗を閉鎖。しかしその素早い英断が功を奏し、翌月には黒字へと回復できたそうです。
今も打撃を受け続けている飲食業界で、どのようにしてコロナ禍を生き延びてきたのでしょうか。また「アフターコロナ」に向けての次の一手は。代表取締役の中村朱美さんに聞きました。
コロナ禍での著名人の訃報を境に客足が激減
── 2012年に「佰食屋」をオープンした後、すき焼き専門店、肉寿司専門店、そして一日50食限定の「佰食屋1/2(にぶんのいち)」を開業しました。4店舗目を開業したのは、自然災害がきっかけだったそうですね。
中村さん:
2018年6月の大阪北部地震に始まり、10日後の西日本豪雨、その2か月後の台風21号による関西国際空港の閉鎖と、3つの災害が連続して関西を襲いました。インバウンド・国内観光客ともに激減してしまい、お客さんが半分ほどしか来られない日が続いて...。結果としてわずか3か月で1000万くらいの赤字を背負ってしまったんです。
ただ逆に言ってしまえば、こんなに災害が連続したのに毎日50人は来てくれたんですよね。それなら、最初から50食限定で、50食でも黒字が出るような構造のお店だったら、この災害の連続でも赤字にならなかったのではないかと。この仮説を実証するために、2019年6月に「佰食屋1/2」を開業しました。
まずは自分たちの店で黒字がでるかどうかを実験して、いずれは全国フランチャイズを目標にしていたんです。でも、オープンからわずか半年後に新型コロナの感染拡大が始まってしまい...。
── 災害をきっかけに新しい形を模索していたら、また次の災害にぶち当たったわけですね。
中村さん:
まさにそうです。実際にお店に影響が出始めたのは、志村けんさんが亡くなられた20年3月29日からでした。それまでもジワジワとコロナが広まっていて、インバウンドの旅行客は減っていたものの、逆に「今がチャンスや!」と国内の旅行客が増えていたんです。それが、志村けんさんの訃報を伝えるニュース速報が流れると、波が引くように観光客がいなくなりました...。
── 4店舗もそれぞれ大きな打撃を受けたことかと思います。
中村さん:
同時期に京都で初めてクラスターが起きたのも相まって、毎日のようにお客さんが半減してくような状態でした。一日20食を切る店舗もありましたね。
ただ、繁華街の河原町や錦市場にあるすき焼き専門店、肉寿司専門店は20食を下回る一方、京都市内の住宅街にある佰食屋と佰食屋1/2は客足が前年対比で変わらなかったんです。繁華街はあまり地元の方々も寄りつかなかったのですが、住宅街の2店舗はむしろ「遠くに行けない分、近くのお店で食事をしよう」と住民の方々が応援してくれたようです。
住宅街と繁華街で明暗が大きく分かれましたし、仮にコロナが2年くらい続くとなれば、繁華街の2店舗を続けていくのは難しいだろうと。それぞれの店舗に所属している従業員を解雇せざるを得ませんでした。
「朱美さん、決断していいんですよ」従業員の後押しで2店舗を閉鎖
中村さん:
従業員を解雇するくらいなら、会社ごと倒産して何も無くなったほうがラクなんじゃないかとも思いました。でも、すごく悩んでいる時に「朱美さん、もう無理なのは分かっているから決断していいんですよ」と従業員のみんなが声をかけてくれて...。そんな従業員の思いにも後押しされて、まだ生きている住宅街の2店舗のメンバーを救うためにも、4月11日には繁華街の2店舗を閉鎖すると決めました。
──かなり早い段階での決断だったかと思います。
中村さん:
そうですね。閉鎖を決めた2020年4月ごろは、全国の解雇者数がまだ8000人ほどしかいなかったんです。解雇者がこの先増えるんだったら、より早く解雇の決断をしてあげないと、よりよい再就職先がなくなってしまう。事実、その半年後には10万人を超えたわけですし...。解雇した従業員のほとんどが1か月以内に再就職できたことが、私の心を救ってくれました。
あえて解雇という強い言葉を使うことで、失業手当を有利な条件で受給できるようにしたほか、解雇予告手当として1か月多く賃金を支払い、就職活動のために「会社の落ち度で解雇せざるを得なかった」という旨の文書もお渡ししました。4月13日の解雇説明会では、お店に残っていたお肉とか野菜とかお酒をみんなで山分けして。みんなと朗らかにお別れできたのも、私の心を少しだけ軽くしてくれました。
── 3月下旬から客足が遠のき、4月上旬に2店舗を閉鎖するまでの間にも負債は大きかったのでしょうか?
中村さん:
その当時は協力金や給付金がまだまったくなかったんですよね。日に日に赤字が増えていくけれど、家賃や従業員の給料に月500万円は払わないといけない。息をしているだけで現金がなくなっていくような感覚でした。
創業時から続けるテイクアウトが黒字を後押し
── そこから黒字に軌道修正できたのには何が大きかったのでしょうか?
中村さん:
いわゆる一発逆転とか、特効薬があったわけではないんです。ただ、できるだけ先を見通して先手で行動していく「種まき作戦」が功を奏したのかと思います。
例えば、佰食屋では創業時からテイクアウト営業を続けていました。創業当時から年間30%(一日100食のうち30食程度)はずっとテイクアウトで販売していたので、コロナ前からテイクアウトの常連さんがいたんです。ですので、最初の緊急事態宣言下ではテイクアウト営業しかできない中でも、そうした方々の支援や口コミのおかげで毎日100食を売り切ることができました。
席数を減らしてイートインを再開したのも京都市内でいちばん早かったのではないでしょうか。2回目の緊急事態宣言やまん延防止重点措置が発令される前も、国や自治体の方針に則った上でイートイン営業をするとのお知らせを早めに出すよう意識していました。SNSでの投稿を見たお客さんが来店してくださったおかげで、発令中が続く中でも黒字で経営できたのかなと思います。
── 2020年12月には佰食屋1/2も閉店しました。黒字を継続していたのに、なぜ閉店を決めたのでしょうか?
中村さん:
佰食屋1/2はコロナ禍でもゆるく黒字が続いていて、フランチャイズに興味があるとの問い合わせも一年で100件以上ありました。でも、コロナでこれだけ飲食店が打撃を受けているのに、フランチャイズで「儲かる」と呼び込める自信がなくなったんです。
これから飲食店の数は淘汰されるでしょうし、コロナが終息してもまた数年後に新たな災害が起こるかもしれません。集客するスタイルの飲食店の未来が明るいとは思えませんでした。これ以上、期待をもたせるわけにもいきませんし、「佰食屋はフランチャイズの募集を止める」との意味を込めて、閉店を決めました。
── おっしゃる通り、飲食店はこれからも災害や感染症拡大のたびに苦境へと追いやられる可能性が高いですよね。アフターコロナに向けてはどのような変化を考えているのでしょうか?
中村さん:
コロナ前は多店舗展開も視野に入れていましたが、今では考え方が変わり、店舗展開以外の販路拡大が必要だと思っています。そこで私たちが注目したのが「防災」でした。
例えば、日本は災害大国なのに、非常時に真っ先に届く食料はおにぎりやパン、カップラーメンなど炭水化物に偏りがちですよね。備蓄用の乾パンや非常食も普段食べたいとは思えません。飲食店は“美味しい”という武器を持っているのに、美味しい非常食づくりに参入しないのはもったいないと思ったんです。
佰食屋はタンパク質が豊富なステーキを売りにしているので、美味しい高タンパクな非常食を作れないかという発想にいたり、現在開発を進めています。レトルト食品を作っている大手の食品会社に企画を持ち込み、その工場をお借りして作っているので、コラボ商品という形になりますね。ゆくゆくは海外での展開も視野に入れています。
これからまた災害が起きたとしても、飲食店の特色を生かした武器をもうひとつ持っておけば、生き延びられると思うんです。そうした武器のひとつを私たちが示して、他の飲食店の活路になればいいなと思っています。
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PROFILE 中村朱美さん
1984年京都府亀岡市生まれ。株式会社minitts代表取締役。専門学校の広報を経て、2012年に「一日100食限定」をコンセプトに「国産牛ステーキ専門店 佰食屋」をオープン。多様なバックグラウンドを持った人材の雇用を促進する取り組みが評価され、2017年に「新・ダイバーシティー経営企業100選」に選出。19年には日経WOMAN「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2019」大賞を受賞した。著書に『売り上げを、減らそう。たどりついたのは業績至上主義からの解放』(ライツ社)がある。
取材・文・撮影/荘司結有 写真提供/佰食屋