指定難病「結節性硬化症」を患い、重度障害を抱える長男のため必死に走り続けてきた母・庄司あいかさん。仕事と育児の両立で限界を迎えていたある日、我慢を重ねていた長女が口にした「にぃになんて死んじゃえばいいのに」の言葉に衝撃を受けます。「仕事も夫婦関係もどん底」と追い詰められた母が、自分を縛っていた「いい母親」の呪縛を手放し、家族と本当の心を通わせるまでの10年の記録です。

難病の息子と長女の育児で限界を超え

庄司隼人 庄司陽菜
隼人くん2歳、陽菜ちゃん1歳のころ。ときにはおもちゃを取り合いながら、一緒に遊んだ

── 生後半年で重度心身障害児と診断された第1子の隼人くんのために、すべてを捧げるように日々過ごしてきた庄司さん。隼人くんが2歳のときに、きょうだい児となる長女の陽菜ちゃんを出産されたそうですね。

 

庄司さん:はい。それから隼人の小学校入学後くらいまでは、落ち込む暇もなく、自分に向き合うこともなく、ずっと走り続けてきた感覚です。

 

私は結婚してすぐに妊娠し、隼人を出産したのですが、隼人のてんかん治療のため、生後6か月ごろから1歳3か月ごろまで入院することになり、私も一緒に病室で生活しました。そのせいもあり、陽菜を妊娠・出産した当時は家事にも慣れていなくて。

 

隼人の離乳食は病院で作ってもらっていたので、離乳食作りも初めてだし、とにかく記憶にないぐらい大変でした。隼人は抱っこであやさないと泣き止まないタイプだったので、陽菜も泣き始めたら、前に隼人、後ろには陽菜をおんぶと、ふたり同時に抱えることもありましたね。

 

でも、もともと家でじっとしていられない性分。隼人を安心して預けられるデイサービスを見つけ、その系列で陽菜の預け先も見つかったので、陽菜が2歳になってからは週3回、パートで働き始めたんです。

 

── その状況で働きに出られたバイタリティはすごいです…!

 

庄司さん:月給が3万円で陽菜の保育園代が月2万円でしたから、疲れるために行っているようなものでしたが(苦笑)、外に出ること自体が気晴らしになっていました。母でもない妻でもない、ひとりの自分に戻れる場所、というか。

 

その後、ご縁があって、別のところから正社員として働きませんかと声をかけていただけたんです。信頼できる子どもの預け先もある状況で正社員のお話をいただけるなんて、こんなにありがたいことはありませんから、お受けすることに。ところが、家事や育児もこなしながらの仕事は本当に大変で。私自身、毎日がいっぱいいっぱいで、完全に余裕をなくしてしまったんです。

「にぃになんて死んじゃえばいいのに」の言葉で

庄司あいか 庄司陽菜
庄司さんと3歳のころの陽菜ちゃん。満開の桜の前で、おばあちゃんとともに

── そのころ、保育園に通っていた妹の陽菜ちゃんのショックな発言を、人づてに聞いたそうですね。

 

庄司さん:そうなんです。知り合いのお母さんから、陽菜が「にぃになんて死んじゃえばいいのに」と言っていたと聞いて…。そのとき、言葉の裏に隠された娘の気持ちはすぐに思い当たりました。「きょうだい児」としてきっと寂しい思いを抱えていたのだろうと。当時の私は、外では正社員の仕事、家では兄の介抱につきっきりで、手のかからない陽菜に関わってあげる時間は少なかったですから。

 

今でもそうですが、陽菜は小さいころから周囲に気をつかって自分の気持ちを表には出さず、隠そうと我慢するタイプでした。その陽菜がお友達にそんなことを言うなんて…。当時のことを思い出すと、今も胸が苦しくなります。

 

それ以来、徐々にではありますが、子どもそれぞれと一緒にいる時間を増やし、「私はあなたが大切なんだよ」と伝えていこうと思うようになりました。気がついたときにギュッと抱きしめたり、「あなたが大事だよ」と言葉にして伝えたり。普段の生活のなかで1対1になる時間を作り、言葉と態度で伝えていくことを意識するようになりました。

「このままじゃ離婚しても同じ」不思議な声に…

── 子育てと仕事の両立に苦戦するなかで、ご主人に頼ることはなかったのでしょうか。

 

庄司さん:実はそのころ、私は夫への不満を抱えていました。「私も外で仕事をしているんだから夫にももっと家事をしてほしい」という家事分担への不満だったり、育児に対する考え方の違いだったり…、ほかにも些細な不満が積み重なっていて、夫婦間の状態はよくありませんでした。

 

もともと夫とは「子どもは3人ぐらいほしいね、きっと楽しいよね」なんて話していて。その思いもあって2人目を望み、3人目も考えていたんです。でも、そのころは頭に「離婚」の文字が浮かぶくらいの状況で。「仕事も忙しいし、育児も大変だし、夫婦関係もうまくいかない。人生どん底…」。そんな気持ちが心のなかを渦巻いていました。

 

限界を迎えたある日、通勤途中の車内で、どこからか「このままじゃ離婚しても同じ」って声が聞こえた気がしたんです。あの声は何だったのか、今でもわからないのですが…その言葉にハッとして。それが結果的に、「本当は心も体も疲れきっている」と心の奥底で感じていた「真っ黒な自分」に向き合うことにつながりました。

 

隼人が生まれてからの葛藤。陽菜が生まれてから今までの怒涛の日々を振り返り、自分の行動や過去の考え方を整理していきました。そうしたら、気づいたんです。「子どものため、家族のため」と思ってひとりで頑張ってきたけれど、無茶な選択をして大変な道を進んできたのは、ほかでもない「自分」だったと。きっと自分のなかで「こうあるべき」という理想の母親像、家族像を作り上げていて、それを知らず知らずのうちに夫にも期待していたんだと思います。だから、自分が考える通りに動いてくれない夫に不満を持っていたんだと。

 

「そうか、うまくいかないのは、夫のせいじゃない。全部自分で決めて全部きっちり自分でやろうとしていた私自身のせいだったのかも」と腑に落ちたんです。それが、仕事を手放す決断のきっかけになりました。

 

── お仕事を手放した背景には、そんな気づきがあったのですね。

 

庄司さん:はい。「働きたい」という気持ち以上に、「私だって働けるんだ」という意地みたいなものにしがみついていたとも思います。

 

仕事を手放すことは私のなかで大きな決断でしたが、いざ仕事から離れてみると、自分の時間も余裕ができ、家族に対してイライラすることがグッと減りました。そうやって過ごすなかで、自分で勝手に決めつけていた、家族のために自分を犠牲にしてあれもこれもがんばるというような「いい母親」の呪縛を解くこともできた気がします。自分が変わることで夫との関係も改善され、3人目も産みたいと決意。1年後に次男の晴が生まれました。

ずっと目が合わなかった息子と初めて心が通じた瞬間

──「いい母親」という呪縛を解くために、具体的にどんな行動を取ったのですか?

 

庄司さん:「いい母親でいよう」とするあまり、頑張りすぎて余裕がない自分がずっと嫌いでした。だから、真っ先にそこを変えたかった。自分を大事に、自分に正直に。自分に対してもっと寛容でいたいと思ったんです。家族のために、の前に、まずは自分が喜ぶことをしてあげようと。そこで、「自分は何が好きだったっけ?」と思い出すことから始めました。当時は、大好きな桜の花にも感動しないぐらい、自分が何を好きだったかも忘れてしまっていましたから。

 

そうしたら、小さいころは土を触るのが好きだったなぁと思い出し、家庭菜園を始めたところ、案の定どハマりして。晴をベビーカーに乗せて、足を真っ黒に日焼けさせながら家庭菜園に没頭しちゃっていました(笑)。そうしているうちに、「そうだ、絵本も大好きだったんだ。せっかくなら、隼人が喜んでくれる絵本を作ろう!」とひらめいたんです。絵を描いたこともないのに、あのときは何かに取り憑かれたかのように没頭して一気に作り上げました。

 

庄司あいか 庄司隼人
『ゆーらんゆーらん』以外も、隼人くんはあいかさんの絵本が大好き

── こうして完成した作品『ゆーらんゆーらん』が、障害の有無に関わらず楽しめる絵本の制作を目指す、インクルーシブ絵本作家として活動するきっかけとなったのですね。もともと隼人くんは絵本が好きだったのですか?

 

庄司さん:いえ、乳幼児期に読み聞かせをしても、反応はなくて。4歳のころには本棚までずりばいで移動して絵本の端を噛むのが好きになってしまい、むしろ、隼人の手が届かないところに絵本を隠していました。ほかのふたりに読み聞かせているときも、特段、隼人が反応を示すことはなかったんです。

 

でも、『ゆーらんゆーらん』を初めて読み聞かせたときは、笑ったような声を発したんです。「あれ?もしかして笑ってる?」というくらいの小さな反応でしたが、何度も読み聞かせていると必ず笑うように。そして、いつのまにか、タイトルを口にしただけで「あ、あの絵本を読んでくれるんだね。僕、待ってます!」という態度をとるようになったんです。初めて「心が通じた!」と思いました。

 

自分を満たすために始めた絵本で、隼人の心も満たすことができた…。隼人とは幼少時から目を合わせることができず、コミュニケーションがとれずにいたのが何よりつらかったので、このときは本当に嬉しかった。そうやって自分を満たすことを大事にしていくうちに、毎日が変わっていったように思います。「全部、自分次第だったんだ」、今でもそう思っています。

 

取材・文:遊馬里江 写真:庄司あいか