指定難病「結節性硬化症」を患い、障害を抱える長男のため、弱音を吐かず奔走し続けた母・庄司あいかさん。「息子のためにできることを」と必死に前を向き続けた陰で、誰にも言えない本音を抱えていました。「心の奥の奥は、真っ黒だった」──目が合わず報われない育児、大好きだった桜を見ても何も感じなくなった心。とっくに限界を超えていた葛藤の日々を明かしてくれました。
脳内に大きな黒い塊が見つかって
── 庄司さんのご長男・隼人くんは、生後半年ごろに、身体のさまざまな部位に良性の腫瘍などができる指定難病「結節性硬化症」と診断されたそうですね。出産時はとくに異常は見られなかったのでしょうか。
庄司さん:はい。ほぼ予定日通りに生まれ、普通のお産だったと思います。スクリーニング検査でも何も言われず…。でも、今となってみれば、新生児期から気になることはいくつかあったと思い出します。1度だけですが、おっぱいを飲ませようとしているとき、泣いていたのが急に静かになって青ざめていたことがあったんです。ほかにも、授乳中は飲みづらそうに音を立てて飲んでいたし、生まれつき白斑という、皮膚の色が抜けて白くなる症状もありました。白斑は後に判明する病気の典型的な症状だったのですが、当時は判断がつきませんでした。
── 本格的に不安を感じ始めたのは、いつごろだったのでしょう?
庄司さん:生後2か月の終わりごろ、泣いていたのが急に泣きやみ、片手を突っぱった状態でピクピクと痙攣する症状が出始めたんです。時間にして30秒から1分程度ですが、この症状が1日に何度も見られるようになりました。
当時は北海道の根室に住んでいたのですが、ちょうど帯広の夫の実家に帰省する予定だったので、帯広の大きな病院の救急外来に相談しました。症状を説明するとすぐに診てもらえ、CTを撮ったところ、脳内に大きい黒い塊があることがわかりました。
── 脳内の黒い影…。それはとても不安になりますね。
庄司さん:はい。黒い塊が見つかったものの、それが腫瘍なのか脳出血なのか…原因不明なので、命に関わるかどうかさえわからないわけです。その状態は、私にとって恐怖でしかありませんでした。手が震え、口が乾き、気分が悪くなり吐きそうになって…こんなふうにパニック状態に陥るのは生まれて初めてのことでした。
結局、隼人はそのままICUに入院となりました。毎日面会に行きましたが、時間が限られていることもあり、私は泣きそうになりながらも必死で涙をこらえていました。
その後、命に関わることではないと判明したものの、結局原因はわからず、1か月後に札幌の子ども専門病院に転院することに。そこに詳しい医師がいらして「結節性硬化症」が判明しました。悩まされていた痙攣は、結節性硬化症の患者が併発することが多い、ウエスト症候群(点頭てんかん)特有のものだとわかりました。
「隼人はそうじゃない」病気から目を背けた

── 隼人くんが結節性硬化症という指定難病と診断されたことを、当時はどう受け止めましたか?
庄司さん:診断名がついたことで、まずは安心しました。原因不明という状態がいちばん苦しかったので。病名がわかったということは、それを解決するための手立ても見つかるわけですから。でも…今振り返ると、病名が判明して数年間は、きちんとこの事実を私自身が受け入れられていなかったと思います。
結節性硬化症は症状の程度に幅がある病気です。難なく日常を過ごす方もいれば、寝たきりの生活が続く方もいる。大人になってから判明する人もいるほどなんです。
隼人は、院内で離れた場所にいても「あ、隼人だ!」ってわかるぐらい泣き声が大きかったし、首のすわりも決して遅くはなかった。だから私は「こんなに元気なんだから、成長するにつれきっとよくなる」って根拠のない自信をもっていました。ネットなどで調べては、重い症例には目を背け、異常なほど快方に進んだ症例に隼人を重ねて。きっとその事実にすがっていたんです。重い症例があることは理解したうえで、でも「隼人はきっとそうじゃない」って。
── それからの生活はどう変わりましたか?
庄司さん:そもそも根室から帯広に帰省したときに隼人がそのまま入院となり、さらに札幌へ転院となったため、自宅はまだ根室にあったんです。でも、点頭てんかんの治療はなるべく早く始めたほうがいいし、根室からの通院は大変だろうと、母子同室での入院生活となりました。夫は2週間に1度、週末に根室から8時間かけて札幌へ会いにきてくれ、私と隼人は病院で暮らすという日々が1年近く続きました。
── 隼人くんは救急病院からずっと入院を余儀なくされたうえ、庄司さんも帰省から通院、入院という生活が続いて、体力的にも精神的にもかなり大変だったのではないでしょうか。
庄司さん:そうですね…。でも「一緒にいる」という選択肢以外は考えられなかったです。
入院期間中、離乳食が始まる月齢になった隼人には病院食が出るけれど、私の食事は当然ありません。だから全部自分で調達しなければいけなかったり、入浴も毎日できなかったりと、不便はありました。でも、何かあったら先生にすぐ相談できる環境はすごく安心でした。
── 隼人くんが1歳3か月ごろ、ようやく石狩市に転居されるかたちで退院されたそうですね。通常の育児の負担が多い時期に、病気特有の介抱も重なるなか、どう日々を過ごしていたのでしょう。
庄司さん:私はもともとじっとしていることが苦手なんです。だから、できる限り外に出ようと思っていました。そもそも知らない土地で知人もいなかったので、子育て支援センターや役所に出向いて「どうしたらいいですか」って相談したりして。自分から探しにいかないと情報が手に入らない状態ではあったけれど、福祉関係には親切な方が多く、職員さんと話すことでも日々のストレスを少し発散できました。隼人が利用できる施設も信頼できるところが見つかり、デイサービスも利用できるようになりました。
私の心はとっくに限界だった

── みずから率先して動いてサービスや支援を見つけたとは、すごい行動力ですね。
庄司さん:当時は「できることはなんでもしよう!」と必死だったんです。母親だからそれが当たり前と思っていたし、弱音はいっさい吐きませんでした。おもちゃを手作りしてみたり、隼人が楽しめそうな場所に出かけてみたり…もう、隼人のために毎日毎日、できることを探して動きまわる感じで。
でも…、今振り返ると心の奥の奥は真っ黒だったと思います。隼人は重度の心身障害があり、当時はいっさい目が合いませんでした。笑うことはあるのですが、私を見て笑っているわけじゃないし…何に笑っているのかも私にはわからない。
一生懸命やっているのに、その手応えがない。報われない。心が通じあえない、わが子を本心から可愛いと思えない。そんな気持ちを心に抱えていたと思います。
道端ですれ違う見知らぬ小学生を見るだけで、自然と涙がワーッとあふれる状態でした。いわゆる「普通」の家族を見ることすら、長い間、苦しかったんです。
── 本当はつらいのに、つらいと言えない。不幸だと感じながらも、不幸なんて言っちゃいけない…。心の奥ではそう思っていたのでしょうか。
庄司さん:報われない育児に心が消耗しきっていたと思います。でも、当時は自分でも気づいていなかったんです、その本心に。表向きは前向きに一生懸命に行動していましたから。でも、自分でも見ないようにしていた気持ちが心の底にあって、隠しているんだけど、隠すこともだんだんとつらくなってきていたのだと思います。
そういえば、隼人が3歳ごろ、印象的な出来事がありました。私は桜の花が大好きで、毎年満開の桜をみるたび「うわぁっ」って心が華やぐんです。なのに、その年は、桜が咲き誇っているのを見ても何も感じない。「なんで?いつもなら感動するのに…」って、心底、不思議に思ったことを覚えています。当時はそんなに重大なことだとも捉えていませんでしたが、私の心はとっくに限界を迎えていたのだと思います。そんな自分にもっと早く気づいてあげられたらとも思いますが、このときはこのときで、きっと私なりに必死だったんですね。
取材・文:遊馬里江 写真:庄司あいか