漫画家で芸人・カラテカの矢部太郎さん。かつて『進ぬ!電波少年』の「〇〇人を笑わしに行こう」で、各国の言語を身に付け、現地の人を笑わせようとする一生懸命な姿が人気を呼びました。そんな矢部さん、昨年はひとり出版社「たろう社」を設立し、父親で絵本作家・紙芝居作家のやべみつのりさんが描いた子育て日記『光子ノート』を出版するなど活躍ぶりが話題ですが、老後への本音もちらりとのぞかせます。

母は「一緒にいられなくてごめん」と言ったけど

── 矢部さんの子ども時代は、普段、お母さんが外に働きに出て、お父さんで絵本作家・紙芝居作家のやべみつのりさんは家で絵を描いたり、一緒に遊んでくれたりしたそうですね。いっぽう、お母さんは外の仕事もあってお忙しそうだったとか。何か接し方でお父さんとの違いを感じることはありましたか?

 

『光子ノート』より、お母さんと姉・光子さんを描いた作品。お母さんの大きくなったお腹の中には生まれる前の矢部さんが

矢部さん:母は幾つか仕事をしていましたが、介護士の仕事がいちばん長くて、介護施設に勤務していました。介護の仕事って、看護師などと同じように夜勤の日があって、夜勤明けの次の日が休みになるような感じだったんですよね。休みの日に母と一緒にいられるのって、子どもながらにやっぱり嬉しくて。一緒に映画を観に行ったりしたことはよく覚えています。

 

母から、「あまり一緒にいられなくてごめんね」みたいに言われたことがあったんです。たしかに、いつも家にいた父に対し、母は全然家にいなかったみたいに見えるしれないけど、僕はそう感じたことはまったくなくて。母も自分の時間を全部子どもに使ってくれていたなと今でも思います。

高給取りのサラリーマンを辞めた父が母と出会い

── お母さんも、矢部さんに愛情をたっぷりかけてくださったんですね。そして、矢部さんが子どもの頃、お父さんにとって苦しい時期がしばらく続いて、その間、お母さんが家計を支えていたとか。矢部さんは、お父さんから「稼ぎが少なくて申し訳ない」といった言葉を聞いた記憶はありますか?

 

矢部さん:それはほとんどないですね。逆に「この仕事でいくらもらえるの?」って母に聞かれて、父が「わかんない」って答えていたくらい。まったく無頓着でした。そのときは「わかんない仕事は受けちゃダメでしょう」って言われていましたけど(笑)。

 

父は、もらえるお金なんて全然気にしてなくて、むしろ「いい仕事」だと思えるものをやったほうがいいって信念があったようでした。今思えば意外ですけど、もともと父は大手自動車メーカーの宣伝部で宣伝の仕事をしていたんです。新卒で入社した理由は、「給料がよかったから」だったそうです。

 

でも、途中で広告やお金のために絵を描くのが嫌になって。全部辞めて、母と出会い、姉が生まれて。その姉をずっと絵に描いていたんです。

 

父はしばらく無職でしたが、「子どもの感性から学びたい」という気持ちがあり、それから子どもの絵画教室や造形教室を始めました。母は、そんな父の思いと生活をいったん切り離して、「私が生活を成り立たせよう」と決めたんだと思うんです。

 

お金度外視でいい仕事をしたいという気持ちと、生活を成り立たせなければという気持ち。今となっては、両親それぞれの気持ちがわかります。

母はいい意味で「諦めていたんだと思う」

── お話を伺っていて、お母さんはお父さんが大好きだったんだろうなと想像しました。

 

矢部さん:たぶん、母は諦めてたんだと思います。だって、父と母が初めて会ったとき、父が髪の毛はボーボーに伸びてて、母がその髪の毛を切ってあげた、みたいな出会いだったらしいんです。それで父が「この人、いいな」って思って結婚したと。

 

一般的には「夫に稼いでほしい」と考える女性がきっと多いですよね。でも、母の場合はちょっと違っていて、「父はそういう人じゃない。私ができることを、同じようにこの人ができるとは思わない」と考えて、自分で稼ごうと決めたんじゃないかなと思います。

 

── 勝手ながら、感性豊かなお父さんだからこそ、子どもをまっすぐ育ててくれそうな印象も受けました。お母さんもそう思われたのでは。

 

矢部さん:そうかもしれないですね。「子どものためにも、父が家でやりたいことをやったほうがいい」と考えたのはあったと思います。

 

── 両親とも外に出て働くことで、子どもが寂しい思いをするのではと悩む方も多いと思います。「私が稼いでくるから、あなたはおうちで子どもたちをよろしく」って言えたお母さんはカッコいいし、お父さんも素敵です。

 

矢部さん:現代とは状況が違うでしょうし、うちはうまくいったほうだったかもしれません。あと、都営住宅が抽選で当たったのも大きかったかも。家賃が安かったので(笑)。