今を起点に過去を見てみると無駄はひとつもない

英月
サンフランシスコにて

── 現在、帰国されて15年が経ちました。住職になってからも大変ではなかったですか。

 

英月さん:そうですね、大変ですね。帰国してから今まで、そして今も、無我夢中で走り続けている感があります。けれども尽くすことができる、頑張ることができるというのは、幸せなことなのかもしれません。ついつい私が頑張っていると思ってしまいますが、前住職である父にも、そして母にも支えてもらっているんですよね。     

 

正直なところ、なりたくてなった住職ではありません。けれども、たとえなりたいと思っても、なれるものでもありません。そういった自分の思いや都合といったことを超えて今、この立場をいただいている。その事実に立ったとき、違う景色が開かれるのではないかなと思います。これは、このインタビューを読んでくださっている方々にも、あてはまることではないでしょうか。

 

それぞれが、それぞれにとって大変な場所で踏ん張っている。その大変さは自分にしかわからないことだけど、大変さも含めてその場所はいただいたもの。それがハッキリとしたら、大変さとの関係も変えられるのではないでしょうか。 

 

── アメリカに渡る前と、10年後に戻ってきた後では、同じ実家のお寺でも見える景色は違うでしょうね。

 

英月さん:全然、違いますね。実家の寺は、私にとって地獄でした。地獄というのはキツイ言葉ですが、お見合いを強要され、ストレスで耳が聞こえなくなり、お医者さまに心療内科の受診を勧められるほど、追い込まれていたのは事実です。もしそのときに、弟が寺を継がないと宣言していても、私の中から継ぐという選択は出てこなかったと思います。なぜなら建物や仏像など目に見えるモノとして、お寺を理解していたから。それだけでなく、お見合いで私を束縛するモノだったかもしれません。     

 

そうして逃げ出した先のアメリカで始めた「写経の会」。その会の中から「お寺をつくろう」という声があがったことで、お寺って何だろう?と、問いが生まれました。そしてお寺に託された願いがあると知らされました。そして今、地獄だった場所が私の居場所となっている事実に不思議な思いがします。今を起点にして過去を見ると、無駄なことは何ひとつないんだなと、思います。