競技で落ち込んでも私にはコスプレがある

── 自信を取り戻すきっかけになったのが競技ではなく、コスプレだったとは。 

 

絹川さん:当時、インターネット上のコミュニティで知り合った仲間と一緒に撮影会を開きました。そこでは私が陸上選手だなんて誰も知らない。それが心地よかったんです。

 

逆に陸上の現場ではコスプレの話はいっさいしませんでした。もしもコスプレの話を漏らしていたら、練習がうまくいかないときに「遊んでいるからだ」と言われかねませんから。2つの世界を相容れないものにすることで、心のバランスを保っていました。陸上で落ち込んだときも「自分には別の居場所(コスプレ)がある」と思えることで、追い詰められずにすんでいたんだと思います。

 

── 閉塞感のある環境で逃げ場を失う息苦しさは、アスリートに限らず、現代の多くの人が抱えている問題のようにも感じます。

 

絹川さん:昨年、現役の女子選手と話す機会があったのですが、いちばんの悩みが「競技のことより、チームでの人間関係」とこぼしていました。特に、共同生活などで寝食を共にする環境だと、どうしても逃げ場がなくなってしまう。 私の経験を話して、「陸上選手としてのあなたをまったく知らない関係、例えば趣味でつながる友人など、陸上競技以外の人間関係を少しでもいいから作ったほうがいいよ」と、アドバイスしました。

 

絹川愛
美形が際立つさわやかな男装コスプレ

── 24歳で選手生活にピリオドを打ちます。陸上を離れ、アイデンティティを失う怖さはありませんでしたか。

 

絹川さん:10年間、それだけに没頭してきたので、「絹川愛」が消えてしまう感覚はありました。でもいっぽうで、蓮弥(れんや)という名前で活動しているコスプレのコミュニティは、陸上を引退しても途切れないので、絶望的な気持ちにはなりませんでした。逆にいえば、もしコスプレがなかったら立ち直るのに相当な時間がかかったはずです。

 

引退後はリアル脱出ゲームの運営会社に就職して、MCをしたり、物語のキャラクターを演じたりする仕事をしていました。小さい頃になりたかった「表現する側」の仕事でしたし、コスプレと同じように「自分ではない何者かを演じる」ことは、陸上を手放した私にとって純粋に楽しく、自分に合っていたんです。

 

6年ほど正社員として働き、休日はコスプレに没頭する生活を続けていましたが、元アスリートであることは周りには伏せていました。「陸上選手だった絹川愛」という色眼鏡なしで、見てほしかったからです。