「お前が辞めろ!」。父に2度もクビにされ、一度は別の道を歩んでいた娘。しかし運命は、彼女を「倒産危機」の舞台へと呼び戻します。 父の急逝により、32歳でダイヤ精機の社長に就任した諏訪貴子さん。待っていたのは、火の車の経営と銀行からの非情な宣告でした。絶望的な状況下で、なぜ彼女は社員から「一生ついていく」と言われるリーダーになれたのか。V字回復を実現させた波乱万丈の3年間に迫ります。

父から2回も「クビ」を宣告された過去

諏訪貴子
大学卒業後、ユニシアジェックス(元Astemo株式会社)にて2年働いた

── 精密金属加工メーカー・ダイヤ精機の創業社長の娘として生まれた諏訪さん。大学卒業後は、ダイヤ精機の取引先であるユニシアジェックス(現・Astemo株式会社)に入社し、エンジニアの道に進みました。将来、家業のダイヤ精機を継ぐことを意識してのことですか?

 

諏訪さん:いいえ、実はファッションデザイナーになりたかったんです。父に内緒でデザイン学校を受験して合格しましたが、「工学部以外は学費を出さない」と一蹴され、しぶしぶ入学。卒業後は父からユニシアジェックスの秘書職になれと紹介されて入社することに。しかし、配属先は工機部。女性初のエンジニアとしての採用と言われましたが、すべては父の差し金でした。男性200名に囲まれた現場、周囲には「ダイヤ精機の娘が修行にきている」と警戒され、「辞めたい」と毎日思っていました。その後、結婚・出産を経て、父がようやく退職してもいいと言ってくれました。

 

── 父・保雄さんは、孫の誕生で「2代目継承」に目処が立ったと思ったのでしょうか?

 

諏訪さん:息子が生まれたときに「でかした!」と言われましたから、おそらく…。父方の祖父や祖母は長寿だったので、父も長生きして、成人した息子に会社を継がせようと考えていたのでしょうね。

 

── 諏訪さんは、会社を2年で退職した後はどのように過ごされていたのですか?

 

諏訪さん:憧れの専業主婦になったものの、3日で飽きてしまって(笑)。1年ほどして父に頼まれダイヤ精機に入社し、総務として父のサポートをしました。ただ、当時の経営は火の車。業務改善を必死に考えてリストラを提案したのですが、父の逆鱗に触れて「お前が辞めろ!」と半年でクビに。その後、呼び戻されてはまたクビになり、計2回も父に追い出されました(笑)。結局、プロの司会者やスイミングコーチとして別の道を歩んでいたのですが、その生活は2年で終わりを告げました。