平成の大ヒット商品となったプリントシール機は女子中高生を中心に人気を集め、今年30周年を迎えました。使い捨てカメラが主流の時代にプリントシール(プリ)が人々の心を掴んだ理由や、新たな発想を模索したもののヒットに繋がらなかった機種の裏側について、業界最大手のフリュー株式会社で広報を担当する門脇彩さんにお話を伺いました。
30〜40社が参入も…3年後には撤退が相次ぎ
── 今年、プリントシール機は30周年を迎えたそうですね。1995年の発売開始後、爆発的な人気となり、当時、誰もが一度は撮影した経験があったと思います。
門脇さん:1995年にプリントシール機第1号のプリント倶楽部(R)(セガ/アトラス)が登場し、テレビで紹介されたことをきっかけに人気に火がついて、プリクラ(R)という愛称で親しまれました。1997年がプリントシール機の最盛期で、業界内外から30〜40社ほどのメーカーが参入し、市場規模は1000億円ありました。弊社も1997年に参入しました。(「プリント倶楽部(R)」及び「プリクラ(R)」は株式会社セガの登録商標)

── すごいですね!なぜここまで流行ったのでしょうか。
門脇さん:当時、今のような携帯電話はなく、撮影するものといえば使い捨てカメラが主流でした。撮影したものがその場でシールになって出てくる目新しさがヒットして、年齢や性別を問わず受け入れられたのだと思います。現在はアミューズメントパークなどをメインに設置されているのですが、当時は証明写真機のように街中の至るところに置かれていました。背景の幕もなかったので、後ろを通る通行人が写り込んでしまったという経験をされた方もいらっしゃると思います。
── たしかに、その現象ありましたね(笑)。プリ帳に貼って集めたり、友達と交換したりするのが楽しかったと記憶しています。
門脇さん:撮影したプリントシールを友達と交換したり見せ合ったりすることがひとつのコミュニケーションツールになっていたと弊社では分析しています。今、平成女児ブームの流れでシール帳を作ってシール交換を行うことが大流行していますが、当時は女子高生を中心にプリ帳を作ってプリ交換が行われていました。
── 先ほど1997年ごろがプリントシール機の最盛期だと伺いましたが、その後はどうなりましたか。
門脇さん:市場規模でいいますと、1998年にはメーカーの撤退が相次いで400億円ほどに減りました。撮った写真をシールにするのではなく、テレフォンカードやカレンダーを作る機能などで他社との差別化を図ったメーカーが多かったのですが、撤退する会社が続出しました。女の子のニーズと合わず売れなかったことが撤退の理由と考えています。その後、2002年頃から600億円ほどに戻りまして、コロナ禍で落ち込んだものの、その後も女子中高生を中心に多くの方に愛され続けています。