青森で就職も結婚と離婚でアナウンサーを退職
── 念願かなって青森朝日放送への就職が決まりました。
竹中さん:まずアナウンサーとして受かったことが本当にうれしかったです。でも、親に言ったら、青森という場所が遠いので反対されるかも…という不安がよぎって。そこで、内定が決まった瞬間に父の会社に電話して、「お父さん、受かったよ!」って真っ先に伝えたんです。そうしたら反対しにくくなるかなと思って(笑)。
── その作戦はうまくいきましたか?
竹中さん:うまくいったと思います(笑)。「遠くなって寂しいけれど、そこまで喜べるなら頑張りなさい」という感じで許してくれました。母も「お父さんがいいというなら」と送り出してくれましたね。
── 青森朝日放送では、どのような業務を担当していましたか。
竹中さん:スタジオでニュース原稿を読むだけでなく、取材業務も担当しましたし、自分が書いた原稿を読むこともありました。当時の自分にとって、仕事のおもしろさはもちろんありましたが、「自信がない自分を変えたい」という気持ちがいちばんの原動力だった気がします。
── その後、他県の放送局に転職されていますよね?
竹中さん:じつは青森時代に結婚して、パートナーが青森から離れることになったのでついていったんです。その当時はレポーターをしていました。ただその後、離婚することになって。広島の実家に戻ることになりました。
就活のために留年したりしてあれだけ頑張ったのに、やっと手にした仕事をやめ、離婚もして…。そんな状態で広島に戻ることになって、さすがに私が落ち込んでいるのは目に見えてわかったと思います。そんな私に母は「あなたには帰ってくる場所があるんだから」と声をかけてくれました。実家に居場所がある、そう思えるだけで本当にありがたかったし、救われましたね。
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離婚と退職を経験し、広島の実家に戻った竹中さんでしたが、しばらくの充電期間を経て、「やっぱり話す仕事がしたい」とNHK沖縄局で再びアナウンサーの道へ。ところが、視聴者からの思わぬクレームがきっかけで自宅待機を指示され、再び仕事ができない状態になってしまいます。でも、そこでへこたれる竹中さんではありません。心機一転フリーに転身し、写真集を自費出版。自分らしい仕事を模索していく第一歩になりました。
取材・文/池守りぜね 写真提供/竹中知華