ベビーマッサージ講師として活動する蛯原英里さんは、看護師としてNICUで6年間勤務しました。緊張感がある職場の仕事も「ありがとうで溢れていた」と話す看護師時代の経験を伺いました。
姉の友里さんとは常に一緒だった
── 宮崎で生まれ育ったと伺っていますが、幼少期はどんなふうに過ごしてきましたか。
蛯原さん:親戚中を探しても双子は私たちしかおらず、小さいころは珍しがられたことがあったのですが、生まれたころから一緒にいるのが当たり前だったので、自分たちが特別だとは思っていませんでした。

それに、私たちの中学校には双子が4組もいたんです。私と友里は同じバスケットボール部に入っていたのですが、大会に出るベストメンバーの5人には、私たちのほかにもう1組双子がいて。そんなに強い学校ではなかったのですが、双子が2組いるということで注目されたのは覚えています。
── 試合の相手も、見ている人も混乱しそうですね(笑)。同じ部活を選ぶとは仲がいいですね。
蛯原さん:中学のころまではやりたいことがたまたま一緒でした。うちは小さいころから習い事は全部同じだったので、家も学校も部活も習い事もずっと一緒です。進路を決めるときに初めて別の道を選びました。でもこれは、私の経験が影響していて。
小学4年生のときに虫垂炎になって入院したことがあったのですが、初めて家族と離れて寂しい思いをしていたときに、小児科の看護師さんがすごく優しくしてくれて。そこから将来は看護師になりたいという夢があったので、看護専門学校に進学しました。友里はデザインを学びたいと言っていて、別々の学校に進学しました。
仕送りに添えられた母の手紙に支えられ
── 看護師を目指していた学生時代はどのような生活を送っていましたか。
蛯原さん:看護師の国家試験もそうですが、本当に勉強が大変だったことを覚えています。病院での実習が始まると、患者さんの疾患を勉強して、担当の看護師の方に自分が調べてきたことを発表することから朝が始まります。小児科、精神科、整形外科、脳外科とさまざまな科に実習に行って、寮に戻ればまた翌日のための勉強をしていました。
── 実家を離れて寮生活を送っていたそうですが、家族と連絡は取っていましたか。
蛯原さん:家族とはしょっちゅう連絡を取っていて、友里とはお互いを支え合いながら刺激し合っていたように思います。電話をかけたら友里も、「今、電話するとこだった!」ということがあって。離れていても、テレパシーといいますか、双子ならではのものがあるんだなと感じました。お互い学んでいることは違うのですが、友里と話すと「あんたががんばっちょるから、私も頑張らんといかん」と思えました。
それに、親元を離れて寮生活を送るなかで母の存在は大きかったです。実家の宮崎から、たくさん私の好きなものが詰められた段ボールが届くのが楽しみでした。大好きな豚骨ラーメンのうまかっちゃんやお菓子が入っていて、必ず手紙も添えられていました。
── どんな手紙ですか。
蛯原さん:季節を感じる内容や「応援しているよ」という言葉もありましたし、看護師の国家試験の前は、「今見ているあなたの世界はまっさらだけど、先を進んで行くと必ずその道のりができていくから、自分が信じたことを貫きなさい」というような内容がかかれていました。
── 泣いちゃいますね。
蛯原さん:実家から出て寮生活を送っている際は本当に家族に支えられました。生活の変化が大きく、大浴場は先輩が入ってきたら湯船には入れずシャワーで終わらせるとか、夜9時に必ず整列して点呼があるなど、寮のルールが厳しくて。同じ部屋の先輩は常に勉強していて、私が寝た後も部屋を暗くして机の卓上ライトだけで勉強していました。
先輩と同室なのは、後輩としてこういう姿を見習ってほしいというのがあったんだと思います。でも振り返ってみると寮生活は青春そのもので、同じ志を持つ同世代の仲間と一緒の時間を過ごせたのは楽しかったです。