2024年に川﨑麻世さんと結婚した川﨑花音さんは、これまでに父、叔母の友人、叔母の3人の介護をしてきました。3人目の介護では夫である麻世さんがサポートをしてくれたことで、ある気づきがあったそうで──。
大学生での父の介護は後悔が残った

── これまでにお父さま、叔母さまのお店のスタッフ、叔母さまの3人の介護をされてきたそうですね。最初にお父さまの介護をされたとき、川﨑さんはまだ大学生だったそうですが、どのような状況だったのでしょうか?
川﨑さん:私が高校生のときに父が胃がんになりました。そのときは手術をして治ったのですが、私が大学生のときに再発してしまい…。抗がん剤治療のために入院と通院をするようになりました。
当時、私は20歳の大学生で友だちと遊びたい時期だったし、芸能界にも憧れていて、ちょうど芸能の仕事を始めて夢に向かってがんばっていたころでした。自分が若かったのもあり、父が死ぬかもしれないということを現実として受け止められず、最初はできるときだけ手伝ったり、病院に行ったりしていました。ただ、病気が進行するにつれ父も母も精神的に追い詰められてしまい…。このままでは生活していくのが難しいと思い、私が徐々に父の介護をおもにするようになっていったんです。
── 20歳で介護をするというのは、葛藤が大きかったのでは?
川﨑さん:同世代の友だちのように、自分が思っているような生活が送れないことに、イライラしていたと思います。ただ、母は父が再発したことを受け止められず、父の病院に行くことを嫌がりました。歯科医の父は自宅で開業していたのですが、治療を待っている患者さまがたくさんいて、その方たちからの「いつになったら診てもらえるのか」という声にも追い詰められ、ストレスを抱えていました。
ふたりとも心身ともに追い詰められていき、家の中がどんどん不安定になっていった感じですね。私はひとりっ子だったので、自分がなんとかしなければと思うようになり、父の通院や入院のサポートをするようになりました。
── 特に大変だったことはなんでしたか?
川﨑さん:まだ若かったこともあり、父の気持ちになかなか寄り添うことができませんでした。病気が進行してどんどんできないことが増えていく父を見ても、それをわかってあげることができず、イラだっていたと思います。病院に行かず、自分のやりたいことを優先してしまったこともありました。
父は私が21歳のときに亡くなったのですが、最後は薬の影響でせん妄状態になっていました。意識が混乱して壁にないもの見えていたようなのですが、そのときに父が私に「お前はそんなこともわからないのか」と怒鳴ったため、私も思わず「そんなものはない」と怒鳴り返してしまったんです。結果的にはそれが父との最後の会話になってしまって。今でももう少しできたことがあったのではと後悔しています。