「家業を継いでほしい」父からの要求を頑なに拒み

── 中山さんは、小学生のころから「芸人になりたい」と考えていたそうですね。
中山さん:小学2年生のとき、テレビで「よしもと新喜劇」を見て以来、お笑いの世界の虜に。同時に「自分も芸人として舞台に立ちたい」と思うようになり、自分のネタを考えたり、ギャグ漫画を描いたりするようになりました。
「これ」と決めたら譲らない僕の性格について、父は「経営に向いている」とよく話してくれていて、当時から父には「いつか会社を継いでほしい」と言われていました。でも、僕は夢を諦めることはできず、「将来やりたいことがあるから」と話を逸らしていたんです。
結果的には、僕は芸人への道を歩み、兄が会社の経営に携わるように。父の会社は倒産しましたが、その後、兄が新たに会社を起こし、今では、ソファーベッドの販売以外にも、さまざまな事業を展開しているようです。
── 芸人への憧れについては、いつごろ両親に伝えたのですか?
中山さん:親に話したのは、中学3年生の三者面談のタイミングでした。面談には、母が同席してくれましたが、「芸人になりたいから、芸能学科がある高校に行きたい」と伝えたところ、母がボロボロと涙を流して泣き出してしまい…。僕が家業を継ぐと期待していたのか、芸人という進路に不安を感じたのかわかりませんが、ショックを受けている様子だけは伝わってきました。
さらに、担任の先生も「芸人になるなんて、現実的じゃない」と反対意見で。「まずは普通科の高校に進学して、そこでじっくり今後の進路を考えたらどうか」と説得されてしまいました。父からも反対されるかと身構えていましたが、「好きにしろ」と意外な反応。僕の性格を理解しているからか、強い反対は受けませんでした。
── その後は普通科の高校へ進学したのでしょうか。
中山さん:はい。ただ、普通科の高校に通っても僕の意思は揺れず、「高校卒業後は吉本の養成所に入る」と進路についても具体性を増していきました。また、当時通っていた高校には、僕と同じような夢を持っている人が数人いて。そのなかで、いちばん真剣にお笑いに向き合っていた同級生と、コンビを組んで学園祭でコントを披露したこともありました。誰かの真似をすることなく、独自のネタを見出そうとする彼との出会いは、僕にとって刺激にもなりましたし、ネタづくりへの難しさやおもしろさを感じさせてくれるものでした。
その彼も「吉本の養成所に入りたい」と言っていたので、「それなら一緒にコンビを組もう!」と口説き落とし、高校卒業後、コンビとして養成所に通うことになったんです。
芸人としての道を歩み始めるまで、逆風も少なくありませんでしたが、結果的に、自分の夢への熱量を実感することができましたし、相方との出会いにもつながりました。その後、しばらくして相方はお笑いの世界から退き、コンビを解消することに。僕は再び苦境に立つことになるのですが、踏ん張り続けたからこそ、現在のような「自分らしい芸人活動」ができていると感じています。諦めずに歩み続けてよかったと思っています。
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高校の同級生とコンビを組み、吉本の養成所に入所した中山さん。その後、コンビ解消や持病の悪化でつらい時期を送りましたが、2009年にはR-1グランプリで優勝し、一躍注目を集めました。しかし、優勝経験をうまく仕事に繋げることができず、仕事は激減し借金を抱えるほどに。借金の返済に追われながらも、ひたむきに芸人活動を継続した中山さん。味わった苦楽のすべてを今に活かしています。
取材・文/佐藤有香 写真提供/中山功太