父親が経営する会社を「いずれは跡を継いでほしい」と期待されていた芸人の中山功太さん。裕福な家庭に生まれ、大豪邸で育った中山さんですが、本人の将来は親の思いとは次第にズレていき── 。

突然、実家が「27LDKKK」に増築された

中山功太
自営業の家に生まれ、裕福な子ども時代を過ごした

── 中山さんが子どものころは、お父さんが会社を経営されていたそうですね。当時はどのような暮らしだったのでしょうか。

 

中山さん:うちの実家は、祖父の代からソファーベッドの製造・販売を営んでいて、父は2代目として会社を引き継いでいました。当時、バブルの影響もあってか、事業は順調だったようでした。僕が5歳になったときには、父が大阪に200坪の土地を買い、3階建て+屋根裏部屋のある大きな家を建てていました。

 

当時は、祖父母と両親、僕と兄の6人暮らし。お金に困らない暮らしをしていたとは思いますが、そのころの僕にはそれを意識するきっかけはなく、「うちって裕福だな」と自覚したのは中学生になってからでした。

 

── 中学時代に、金銭感覚を意識させる出来事があったということですか?

 

中山さん:僕が中学3年生のとき、祖父と父が自宅を「27LDKKK」に増築したんです。当時、実家の裏側にあった土地が売地に出されることになったのですが、祖父が「そこもわが家の所有地にする」と言って突然、購入。隣の土地と繋げる形で自宅をリノベーションし、27個の部屋と3つのキッチン、4つのトイレがある家になりました。

 

増築する前の家でも、十分な広さがあったにもかかわらず、さらに家を広げる決断をした父たちの言動が、わが家の財政状況を意識するきっかけになりました。

 

── 6人家族で27部屋もあると、使わない部屋も多かったのではないでしょうか。

 

中山さん:「絵だけ飾ってある部屋」とか、兄が趣味で集めていた「フィギュアを飾るための部屋」なんてのもありました(笑)。キッチンやトイレを増やしたのも、必要を感じたからではなくて、「とりあえず増やした」という感じ。僕も7畳の部屋を1つ使っていただけだったので、使っていない部屋のほうが多かったように感じています。

 

当時、父は仕事で忙しく、家事や子育ては母が中心。とにかく母は「掃除が大変」といつも話していました。僕は芸人になってからも、しばらくは実家で暮らしていたのですが、会社は少しずつ経営が悪化し、僕が20代のころには倒産してしまいました。会社が倒産すると同時に家を手放すことになるのですが、最後のほうは母も「いつも使っている場所」だけを掃除するようになり、それ以外の場所は埃が溜まった状態になっていました。経営が傾いてから母もパートにも出ていたので、まあそこまで手は回らないですよね。

 

── 倒産されてから家が急に狭くなって大変だったのでは?

 

中山さん:そうでもないですね。僕はもともと狭い空間が好きで、27室あったうちのひとつの部屋の片隅に小さい部屋を作って過ごしていました。そこの空間が居心地がよかったのをいまでも思い出します。

 

── 家を手放した後は、どのような暮らしを送っていたのですか?

 

中山さん:そうですね。会社が倒産して、ある日突然、「出て行く準備をしろ」と父に言われ、家族それぞれが住む家を探してバラバラに暮らすことになりました。両親はもともとあまり仲がよくなかったので、このタイミングで別居することになり、祖父母との同居も解消。僕は、当時つき合っていた彼女と一緒に、2LDKの部屋を借りて同棲することにしました。慣れ親しんだ実家がなくなることはショックでしたが、前向きに各々の人生を歩み出したような印象でした。