30代は子育てに明け暮れるも、40代で俳優としての活躍が注目されるようになった赤間麻里子さん。その原点は、先日亡くなった仲代達矢さん主宰の「無名塾」で19歳から過ごした10年間にありました。当時を振り返り、あらためて仲代さんへの想いを伺いました。

「月謝無料」に惹かれて受けた無名塾のオーディション

── 赤間さんは、名優・仲代達矢さんと妻の宮崎恭子さんが1975年に立ち上げた俳優養成所「無名塾」のご出身です。日本を代表する俳優を多数輩出した無名塾ですが、赤間さんが入塾されたきっかけは何だったのですか。

 

赤間さん:もともと高校を卒業して昭和音楽芸術学院(現・昭和音楽大学)のミュージカル科に通っていました。大学を休学して、海外でダンスを学んでいたのですが、ミュージカルなどを見ていくなかで、歌や踊りは訓練によって目に見えるように上達しても、「芝居は訓練のしかたが難しいな」と思うようになって。「どうやって勉強すれば上達するんだろう。芝居のレベルの底上げをしないと手遅れになるんじゃないか」と悩みました。

 

そんなとき、オーディション雑誌に無名塾の塾生募集の告知が載っているのを見つけたんです。「月謝無料」と書かれているのを見て、「あの仲代達矢さんに芝居を無料で教えてもらえるなんて」と感激して、すぐ応募しました。

 

── みごと塾生になられたわけですが、入塾のためのオーディションはあったのでしょうか。何人くらい受けられたのでしょう。

 

赤間さん:私の期はオーディションに1500人が集まったそうで、合格者は7人でした。合格者3人の期もあったそうです。オーディションはトータル1週間。第1次審査では与えられたシナリオを読む課題が出て、第2審査でも3つほど課題が与えられたんですが、最終の第3次審査では、3日間、無名塾生と仲代さん、奥さまの宮崎さんと一緒に生活しながら、芝居の稽古をしたんです。後になって知ったのですが、第3次審査は人柄、先輩に対する態度、遅刻をしないかなど、日常の振る舞いを見るための審査だったようです。

 

赤間麻里子
19歳のころ。地方公演中は2時間衣装番をするのも仕事のひとつだったそう

── 無名塾には19歳から10年間在籍されたそうですね。当時、大変だったけれど経験してよかったと思えることはありますか?

 

赤間さん:合格して入塾したあとは、塾生たちと家族のように暮らしながら稽古尽くしの毎日でした。とにかく朝が早いんです。毎朝4時起きで、稽古場を掃除して、毎朝6kmを走る日課をまず3年間続けました。稽古場には、仲代さんが作った塾生たちの「克己(こっき)グラフ」がずらっと貼られていて。「克己グラフ」というのは、「自分の感情や欲望や弱さに打ち勝つ」という意味の、いわばシフトカードのようなものです。朝何時に塾入りしたか、何時に何週走ったか、何時に稽古場を出たかなどを毎日書いていました。

 

仲代さんは毎朝、稽古場に入ると、いつもストレッチをしながら塾生たちの「克己グラフ」をじーっと眺めているんですよね。その姿に私たちは緊張しながら稽古を続けて。というのも、毎日ちゃんと朝早く稽古場に入って、掃除と6kmのランニングを終えた人から優先的に稽古をみてもらえるので。「克己グラフ」の記録次第でその順番が決まっていたんです。

 

週2回、仲代さん、宮崎さんに見ていただける稽古日があり、稽古日の午前中は特に集中してお二人に見ていただける。だから、私たちにとっては大きな勝負の時間でした。いつもお忙しい仲代さんに自分の稽古をみてもらえる特別な時間ですから。ときどき「巨人戦が始まるから」なんておっしゃって帰られるときもありましたけれど(笑)。

 

赤間麻里子
20歳のころ、無名塾公演『令嬢ジュリー』に村人役として出演(左から2番目)

── 仲代さんはチャーミングな一面もお持ちだったのですね。

 

赤間さん:本当にチャーミングな方でした。ただ、入塾から3年間、朝早く稽古入りする毎日が当たり前だったおかげで、今でも撮影で「始発入りです」と言われても別に早いとは思わないんです。仲代さんはきっと、役者の仕事が朝早いことも考慮して、稽古のスケジュールを組んでくれていたのかなと思います。無名塾の時代に、基礎体力も培われました。