シングルになった母は実家を頼らずひとりで子育て
── 日本に来てからは、お母さんの実家の近くに住んだのでしょうか?
ユージさん:いえ、母の実家は茨城県にありましたが、そこには頼りませんでした。というのも、祖父が太平洋戦争を生き抜いた愛国心の強い人で、アメリカに対して敵対心を持っていたんです。神風特攻隊の一員だったらしく、出陣命令が下ってお国のために命をささげる覚悟を決めていた直後に戦争が終わったそうで、不完全燃焼だしアメリカが憎いし、という気持ちが続いている方だったんですね。
小さいころから自宅に元軍人仲間が集まって軍歌を歌い、「アメリカなんて」という話を母は聞かされていたそうです。それがイヤでしかたなく、家を出たい、海外へ行きたい、そのために英語を勉強したい、という一心で母は上智大学へ進学したようです。そこで当時、来日して上智で学んでいた父と知り合いました。
そんな祖父なので、母は結婚してアメリカに行くと決まったとき、「二度と日本に帰ってくるな」と言われたそうなんです。祖父は戦後、自分で事業を立ち上げて成功していたので、そちらに頼ればお金に苦労しなかったのかもしれませんが、母としては勘当されたも同然だからひとりで僕を育てるつもりで、仕事を得やすい東京で暮らしはじめました。
でも僕が思うに、母親が意地を張っただけで、孫を連れて祖父を頼っても追い出されることはなかったと思うんですけどね。甘え下手で頑固な母親なんです。
── 5歳で日本に来て、当時の生活の変化を幼な心にどう感じていましたか?
ユージさん:客観的に見れば裕福な暮らしから一気に生活が大変になったわけなんですけど、幼なすぎて金持ちとか貧乏とかいうのもわからなかったです。むしろ、日本での暮らしは毎日が冒険のようでした。家がボロボロだったので自分たちで床を張り替えたり壁にペンキを塗ったり、いろんなものを手づくりするのがワクワクして楽しかったです。
── どんなお家に住んでいたのですか?
ユージさん:大きな戸建ての庭の一角にある離れを家賃2万円で借りていました。母親がその離れを見つけてきたとき、大家さんは当初「貸さない」と言っていたのですが、奇跡的に大家さん夫妻が2人とも上智大学の教授だったんです。母の出身が上智だと知って、これも何かの縁だと言って格安で貸してくれたという経緯があります。
── 日本語は、お母さんと話していたからある程度できたのでしょうか?
ユージさん:アメリカでは日本語をいっさい使っていませんでしたし、日本に来てからも母は僕の英語力を落とさないために英語で会話していました。学校もインターナショナルスクールに入ったので、小学校3年生で日本の小学校へ編入するまで、日本語はまったく話せませんでした。「母子家庭でインターに?」と思われるかもしれませんが、母親は必死で自分の会社を立ち上げ、ネイルアートやインテリアデザインの仕事をしていて、最低限の生活費以外は僕の教育に注ぎ込んでくれていました。お金に余裕があった父親との親権争いを勝ち取り、必ず自分が立派に育てると決めていたらしく「教育費以外の出費を抑えてでも、稼いだお金は教育費に回したい」という思いがそうとう強かったんだと思います。