ピン芸人として生きていく覚悟を決めた電話

── 気持ちの変化はありましたか?
シルクさん:ミヤコさんがいたときは、「2人でなんばグランド花月のトリを飾る」という大きな夢を持っていました。その夢を一緒に追いかけることが、生きがいでもありました。でも、その夢が突然なくなってしまった。ひとつの夢だけを支えに生きていると、失ったときにどう立ち直ればいいのかわからなくなる。そんなことを身をもって知りました。
ニューヨークでの生活を通して、「どんな小さなことでもいいから、毎日、いくつも小さな夢や目標を持とう」と思うようになりました。ミヤコさんが37歳で他界した後は、1年間、毎日ミヤコさんの夢を見ていました。喪失感がなくなることはありませんでしたが、必死に生活をする日々のなかで、ミヤコさんの夢を見ることも少しずつ減っていきました。
── どれくらいお休みをされていたんですか?
シルクさん:8か月ほどお休みをいただき、その間はアメリカやカナダで過ごしました。カナダでは、当時まだ日本にはなかったピラティスに出会い、すっかり夢中になりました。心と体を整えるため、運動や食事にも自然と気を配るようになりましたね。8か月ほど経ったころ、吉本興行元会長の大崎洋さんから「ラジオの仕事があるから戻ってきなさい」と声をかけていただき、日本へ帰国しました。私はそのタイミングで、自分の気持ちにけじめをつけるため、漫才師をやめてピン芸人として生きていく覚悟を決めました。
「こんな生活は姉さんだけ」と言われ
── そうだったんですね。
シルクさん:覚悟を決めたとはいえ、女性芸人がコンビで漫才をしている姿を見ると、胸の奥がざわつきました。過去を思い出して「いいなあ」とうらやましく思う気持ちが湧いてくることもありました。でも、嘆いてばかりでは前に進めない。そう思い、自分にできることに集中しました。
帰国後は、ピラティスの資格を取得したり、体と心にいい生活を徹底したりと、自分のペースで前向きに暮らし始めました。ニューヨークから持ち帰った美容ツールやコスメを使って、自分なりの美容法をどんどん確立していきました。
そんなある日、テレビのロケ番組で私の自宅にチュートリアルの2人がリポーターとして来てくれたんです。そこで徳井くんが「こんなに美にこだわった生活をしているのは姉さんだけだから、世の中の女性に健康や美容法をもっと教えたほうがいい。劇場で講座を開いたほうがいい」と言ってくれたんです。
── 徳井さんに言われたんですね。
シルクさん:自分にとっては当たり前の生活だったので、最初は「そうかな…?」という感じでした。でも、劇場スタッフのあと押しもあって、旧梅田花月の夜の部で、毎月1回、健康と美容法を教える「べっぴん塾」を開くことになったんです。最初は20人ほどの参加者の前で、自分の経験をもとに「体と心を整えてきれいになる方法」をお伝えしました。
受講してくださる方のなかには、かつての私のようにメンタルがどん底まで落ちている人がいるかもしれない。そんな人にこそ「みんなで元気にきれいになりましょう!」という思いを届けたかったんです。そうやってコツコツ続けていくうちに、参加者はいつの間にか100名を超えるようになりました。
── 人数がどんどん増えていったんですね。
シルクさん:自分でも驚きました。ニューヨークに行く前までは、寝る前にポテトチップスを食べたり、自炊もしない生活だったんですよ。それが、ありがたいことに「美容番長」としてメディアに出させてもらえるようになりました。
昔は「太っているのも笑いになればいい」と思っていました。芸人だからと。でも、べっぴん塾を続けるうちに、「芸人だけど、自分には自分の役割があって目指したい場所がある」と考えるようになったんです。