「お父さんには会いたくない」と面会拒否したが
── 施設に入られてから、ご両親とのかかわりはあったのでしょうか。
田中さん:私はありました。ただ、どのように親と交流するかは、子どもによって違います。児童相談所の人と施設の職員さんが話し合って、子ども自身の気持ちを聞いたうえで親との関わり方を決めます。
そのために施設では年に1回、「今後、親とどうなりたいか」ということを個別に聞かれます。子どもの意向を汲んだうえで、施設の先生方は可能な限り親と連絡を取って、子どもとの間に入って関係をつなぎ、親子関係をどう回復していくかを考えてくれます。
手紙や電話という間接的な交流からスタートして、面会、それをクリアしたら外出、外泊と進んで、状況が整えば家庭に戻ることが最終ゴールになります。でも、なかには親に居場所を知られてはいけない子もいて、そういう子を親から守るのも施設の先生たちの役目です。学校でも、そういう子には通称を使うなどの配慮をしていました。
私の場合は「どうしたい?」と聞かれて「お母さんには会いたいけど、お父さんには会いたくない」と答えました。当時は、父のことが怖かったんですよね。施設の人が母と連絡を取ってくれて、母とは月に1回、施設で面会をしていました。母は会うたびに「お金がない」と言っていて、一緒に暮らすことはできませんでしたが、半年後くらいから月に1回、一緒に外出するようになって、お兄ちゃんやお姉ちゃんとも一緒に池袋へよく遊びに行きました。次の年からは外泊の許可も出たので、夏休みにはみんなで新潟にある母方のおばあちゃんの家に泊まりに行くこともありました。
父とはずっと会っていませんでしたが、手紙のやりとりはしていました。私からは年賀状や暑中見舞いを出して、父からは毎年、誕生日に手紙が届きました。音の出るカードやキャラクターのぬいぐるみ付き電報をもらって、うれしかったのを覚えています。小学校高学年くらいから、4年に1回のペースで面会をするようになりました。
── 面会を重ねるうちに、お父さんへの気持ちは変化しましたか。
田中さん:当時は、一方的に「お父さんが悪い」と思っていましたけど、大人になって父や祖母、姉から当時の話を聞くと、母にもいろいろと問題があることがわかって…。詳しいことはお話しできないのですが、今は当時の父の気持ちも理解できます。
私が18歳になって施設を出るとき、父が先生方に挨拶に来てくれました。会議室で先生方と話しているとき、父が取り出したノートに、私の奨学金や学費の計算がびっしり書いてあって、「れいかはこの先、大丈夫でしょうか」と先生に聞いていました。私は施設を出たあとはひとり暮らしをして、学費も生活費も親には頼らず、奨学金とアルバイトでやっていくと決めていましたが、父なりに心配してくれていたみたいです。そのときの父の姿を見て、「ちゃんと考えてくれているんだな」と思えました。
成人式には、父が「振袖を買ってあげる」とメールをくれて、一緒に買いに行きました。姉のときも、同じように買ってくれたそうです。父は寡黙で口数が少ないのですが、帰りに一緒に食事をしたときに、私たちを施設に入れてしまったことを「申し訳ないと思っている」とか、「れいかが結婚するまでは死ねないな」とか、「障がいのあるお兄ちゃんが心配だ」ということをぽつりぽつりと話してくれて、父なりに私たちのことを心配してくれていることが伝わりました。世間的には「虐待をした親」ですが、私は父を「許したい」と思いました。
── 大人になった今、ご家族のことはどのように思っていらっしゃいますか。
田中さん:「戸籍上のつながりがある人たち」です。あっさりしていますよね。私には家族で一緒に暮らした記憶がほとんどないので、そういう認識です。でも、このまま接点を持たずに両親を失ったら、きっと後悔すると思っています。だから、ときどきお父さんと出かけたり、再婚したお母さんの家に行ったり、離れているおばあちゃんには写真を送ったりするようにはしています。施設にいた間にできなかった家族体験を、少しでも取り戻したいと思っています。
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施設を出てから、モデルとして活動を始めた田中さん。現在は、親元を離れて暮らす子どもたちへの理解や支援の輪を広げるために、講演活動や情報発信をしています。
取材・文/林優子 写真提供/田中れいか