90年代後半、渋谷を中心に極端に黒い肌に奇抜なメイクで注目を浴びたヤマンバギャル。中心人物であったあぢゃさんは、37歳で結婚して出産しますが、第2子の妊活では夫婦で温度差があったと語ります。

ヤマンバギャルの「賞味期限が切れた」その後

あぢゃ
2024年、家族旅行で沖縄へ

── 1990年代後半、渋谷で流行した「ガングロ」メイクと奇抜なファッションの「ヤマンバ」ギャル。その中心にいたのが、あぢゃさんです。映画やCMにも出演するなど、当時はヤマンバの象徴としてメディアにひっぱりだこでした。そんなあぢゃさんも、今では3児の母。あのブームが去った後、どんなふうに暮らしは変わっていったのでしょうか。

 

あぢゃさん:2000年に雑誌『Popteen』に取り上げていただいたのがきっかけでメディアに出るようになりました。その後、ヤマンバギャルとして芸能の仕事をさせてもらっていたんですが、ブームが去って需要がなくなり、25、6歳のころには完全に飽きられて賞味期限切れに。

 

そこからしばらくは食べていくためにいろんな仕事をしましたね。接骨院の受付、ホテルの配膳、スナックのホステス。ガンダム好きが高じて、重機の免許もいくつか取得しました。ガンダムって重機みたいなものじゃないですか。重機に乗れば、ガンダムに乗っている気分になれるし、仕事にも役立てばと。

 

── ガンダムに乗りたくて重機の資格、ですか。わかるような、わからないような(笑)。

 

あぢゃさん:実はその後、東日本大震災のときに重機の免許を活かしてボランティアに参加したくて応募したんですが不採用。資格はとったけど実務経験がなかったからか、震災時にはいかせず、何もできなかったのは悔しかったですね。

 

20代後半は、バイト三昧の毎日でした。私は中2で母をがんで亡くしていますが、ママっ子だったのに母の病気が受け入れられず、母に素直に接することができませんでした。また、父は忙しく働きながら、ヤマンバ時代の私をそっと見守り続けてくれました。それまで自由にやってきて親に心配ばかりかけたぶん、少しでも恩返しがしたくて、毎月仕送りもしていました。ホテルの深夜帯の配膳、ジムの受付、スナックと、3つ掛け持ちで休みなく働いていましたね。

 

── その後、30歳で銀座のクラブへ。のちに売り上げナンバーワンにもなったそうですね。夜の世界に飛び込んだきっかけは?

 

あぢゃさん:バイト先が経営不振になったとき、友達が「話すの上手いし、やってみない?」と紹介してくれたんです。最初は最低ランクの日給からのスタートでした。でも、がさつに笑っていたらオーナーにクビを言い渡されて(笑)。それをバネに次の店で本気になりました。

 

テレビや新聞を片っ端から読んで、話題についていけるように努力して。お客さんの名刺の裏に、好きなお酒やその割合、苦手な話題などをびっしり書き込んで覚える。そうやって接客の腕を上げていったんです。努力の甲斐あって、売り上げナンバーワンを何度も取るようになり、月の収入が3ケタに届いたこともありました。

 

── ギャル時代の社交力を、夜の仕事でも武器にされたんですね。「これだ」と思ったら突き進むパワフルさは、あのヤマンバ時代を彷彿とさせますね。

 

あぢゃさん:目的があればガーッと突き進むタイプなんです。私は学もないし、顔もよくないから、人一倍やるしかない。新聞を読むのは昔から好きでした。実家のスナックではデイリースポーツを取っていて、野球ネタやエッチな記事をずっと読んでいたので(笑)。でも結局、私が頑張れたのは、周りの人に恵まれたから。いいご縁があって、支えてくれた人たちのおかげです。

 

銀座でホステスをしていたのは、5、6年ほど。35歳のころに「そろそろ結婚したいな」と思って婚活を始め、マッチングアプリで知り合った今の夫と3か月で結婚を決め、ホステスをやめました。結婚したのは37歳のときです。