メラニン色素が少ないため、生まれながらに髪や肌が白い「アルビノ」。近年は多様性への理解が広がり、見た目の違いを受け入れやすい時代になってきましたが、粕谷幸司さん(42)が生まれた当時はまだ情報が乏しくて── 。
「どうして僕はみんなと違うの?」

── 生まれつき髪や肌が白く、視力にも影響が出る「アルビノ」という体質。いまでこそSNSやメディアを通じて当事者の声を知ることができますが、粕谷幸司さんが育った1980年代は、アルビノという言葉自体がまだ知られておらず、情報も理解もほとんどない時代でした。そんななか、「人と違う」という現実にどう向き合ってきたのでしょうか。
粕谷さん:周りとの違いを感じはじめたのは幼稚園くらいです。小学校に入ってすぐ、みんなから「どうして白いの?」と聞かれたことがきっかけで、それをハッキリ意識しました。自分でも理由がわからず、うまく答えられなくて泣いてしまったんです。
家に帰って母に「どうして僕はみんなと違うの?」と聞いたら「生まれつき白い髪と白い肌を持っているだけで、ほかの子と同じだよ」と。母はいつも「幸司は白くてかわいいね」と言ってくれていたので、「これは自分の特徴なんだ」と前向きに受け止められたんです。そこからは「生まれつきこうなんだよ」と答えられるようになりました。
── 幼いながらも、自分なりに状況を理解しようとしていたのですね。子ども時代は、どんなふうに過ごしていたのでしょう?
粕谷さん:3人兄弟の末っ子で、幼いころは兄たちとよく遊んでいました。でも2人とも中学から全寮制の学校に進み、両親は自営業でとても忙しかったので、家でひとり過ごす時間が増えました。先天性の「白皮症」(皮膚の色素であるメラニンが作られなくなる遺伝性の病気)で、紫外線は大敵。日焼けをするとやけどのようになってしまうので、外に出るより家でテレビを見ているのが好きでしたね。
── 日差しを避けなければならないのであれば、体育の時間などは大変だったのでは?
粕谷さん:入学前に母が学校へ説明してくれていたので、体育では基本的に日陰にいるようにしていました。自分の番が来たら列に加わり、終わったらまた日陰に戻る、といった感じで。先生と相談しながら、その都度、調整していました。
でも、一度だけ大きな失敗をしたことがあります。小学校1年生のときのプールの授業でのことです。日焼けしてはいけないとわかっていたけれど、みんなとプールに入りたくなり、「今日は曇りだから大丈夫です」と先生に告げて参加しました。ところが、プールから上がったときには体が熱くて全身真っ赤。すぐに病院に行きましたが、水ぶくれのようになり、痛くてたまりませんでした。それ以来、日差しには細心の注意を払うようになりましたね。
── アルビノの方は、視覚障害を伴うケースが多いと聞きます。学校生活のなかで、視力の問題には、どう対応していたのでしょう。
粕谷さん:アルビノでも視力の程度は人それぞれですが、眼鏡をかけても視力が上がるわけではないので、基本的には裸眼での生活になります。教科書やノートなどの文字を読むときには近用レンズ(凸レンズ)を虫眼鏡のように利用していました。当時は単眼鏡などの補助具も手に入りにくく、自分でなんとかするしかなかったのです。僕の場合、視力検査では0.1弱くらい。当然、黒板の文字は見えないので、小学2年生のときからは「いちばん前にしてください」と先生にお願いしました。
耳から入る情報を頼りにノートをとるなど、自分なりに工夫していました。ただ、廊下で誰かが手を振っていても、自分に向けられているのか後ろの人なのかわからないことがよくありました。人の顔はハッキリとは見えないので、雰囲気や輪郭、話し方の印象などで覚えるしかないんです。
日々起こる出来事に対し、先生が「これでいい?」と確認しながら対応してくれましたが、結局、僕の症状について詳しくわかっているわけではありません。そうしたなかで、「自分でなんとかするしかない」という意識が芽生えていったように思います。