コロナ禍で亡くなった父の手続きをしてくれたのは

── お父さんはその後、本当にバリでラーメン屋を開業されたのですか?
菅さん:本当にバリでラーメン屋をオープンしました。むこうで暮らしている日本人が多く、その方たちの憩いの場として繁盛していたようで、庭つき3LDKにペットと住む裕福な生活をしていました。父はラーメンの材料を日本から空輸していたのですが、その材料費や空輸代の支払いは、実はすべて母の銀行口座から引き落としされていたんです。なので、父は経費は母持ちでラーメンが売れればそれがすべて自分の利益になり、売れるだけ儲かっていたみたいで。そんな感じだったので、結果的に母に愛想をつかされて、僕が30歳を超えたころに両親は離婚しました。
── 菅さんはお父さんがバリに行った後も、よく会われていたのですか?
菅さん:父がバリに行ってからは結局2回しか会っていないですね。そのうちの一度は明石家さんまさんのバラエティ番組での共演だったのですが、父親が出ているVTRの終わりにサプライズでスタジオに現れて8年ぶりに再会。そこで父が作ったラーメンを初めて食べました。おいしかったですが、特に感動することはなかったです(笑)。父は僕がお笑い芸人として活動しているのを、常連のお客さんからDVDをもらって知っていましたよ。
── 現在もラーメン店はあるのですか?
菅さん:ラーメン店は契約更新の関係もあり2016年に閉店しました。親父も数年前に突然、バリで亡くなりました。実は親父が亡くなったのはコロナ禍で、かなり制限が厳しいときだったんです。バリに行くとホテルなどに2週間隔離され、帰国後も2週間の隔離が必要な時期でした。バリに行ってしまうと1か月近く僕も仕事ができないし、もし行ったとしてもお葬式には間に合わない。「どうしよう」と思っていたのですが、そのときにバリですべての手続きをやってくれたのが、シャ乱Qのはたけさんだったんです。
はたけさんは当時バリに住んでいて、親父と仲がよかったそうです。親父は突然亡くなったので、現地のかたが日本の僕たちの連絡先を調べるのは大変だったようなのですが、はたけさんが芸能界のいろいろな人に連絡をとって、僕の連絡先を見つけてくれて。突然、連絡が来たときは驚きましたが、すべて片づけてくれて、本当に感謝しています。いまだにバリには行けていませんね。父の遺骨はバリで海洋散骨したのでお墓があるわけではないのですが、すべての海が父に繋がっていると思っていますので、海を見るたびに想いを偲ばせています。
母親には一度勘当されかけたが…
── 自由なお父さんだったので、お母さんは大変だったのではないでしょうか?
菅さん:そうですね。僕も中高生のころはギャル男で好き勝手していたので、僕や父に母はかなり振り回されていたと思います。今はふつうに母と仲がいいですが、30歳のときに一度勘当されかけたことがあります。
僕は猫が大好きで昔から飼いたかったのですが、母にはずっと猫を連れて帰ってきたら勘当すると言われていて。子猫ならかわいいし大丈夫だろうと思って、レギュラー番組の企画に便乗して連れて帰ったのですが、考えが甘かったですね。すぐに「出て行け」と言われましたが、「部屋を探すまでのあいだだけでも」となんとか置いてもらい、33歳でやっとひとり暮らしを始めました。
── ひとり暮らしまでが長いですね(笑)。現在は菅さんがやっているYouTube「カンリンケン仮」に、お母さんも出ていますね。
菅さん:YouTubeは親孝行ですね。妹の娘の姪のリンと、妹の息子の甥のケンと3人でやっているのですが、最近では母が作ってくれるご飯を食べながらトークをするのが恒例になっています。リンとケンは母にとっては孫。かわいがっている孫とご飯を食べられて、うれしいんじゃないかな。食事を作るのも母だし、食費は僕が出しているわけでもないし、母にとっては負担しかないような気もしますが(笑)、僕的には親孝行になっていると思っています。
取材・文/酒井明子 写真提供/菅 良太郎