大学生にしてバスケットボールの特別指定選手としてプロ入りし、現在はBリーグ・佐賀バルーナーズで活躍する内尾聡理さん。物心ついたころからひとり親家庭で育ったものの、早くから親元を離れ、バスケに専念できる環境に身を置いてきました。金銭的な問題で諦める子もいるなか、内尾さんは自分が進みたいと思った道をお母さんに反対されたことは一度もないといいます。

ひとり親家庭で育ち「遊びに行った記憶は少ないけど」

── お母さんが女手ひとつで、内尾さんと4歳上のお姉さんを育てられたそうですね。当時のことは何か覚えていますか?

 

内尾聡理
幼少期の内尾さん。あどけない表情がキュートです

内尾さん:幼稚園のころに家族で遊びに行ったことはおぼろげに覚えていますが、小学校以降は遊びに行った記憶がなくて。母はほぼ毎日仕事だったし、僕は小学1年の終わりくらいから姉と同じバスケットボールチームに入り、練習に通っていました。家で家族と過ごす時間はあまりなかったですね。

 

中学1年のときに親元をはなれて県外の中学に進学したので、母と暮らしたのは小学生のころまでです。それでも、母は忙しい日々のなかで時間を見つけては、練習のたびに送り出してくれました。あのころの何げない光景を、今もふと思い出すことがあります。


── お母さんは、保育士やテレフォンアポインターなどの仕事をかけ持ちされていたそうですが、内尾さんの送迎もされていたのですね。

 

内尾さん:そうですね。母はいくつか仕事をかけ持ちしていたと思いますが、それでもできるときは送迎をしてくれていました。仕事の都合で難しいときは、友達の親御さんが代わりに送り迎えをしてくれて、母が迎えに来るまで友達の家で過ごし、ご飯を食べさせてもらうこともありました。

「やめるかも」と思ったバスケに夢中になって

── バスケは、お姉さん(バスケットボール女子・富士通レッドウェーブ所属の内尾聡菜選手)の影響で始めたそうですね。

 

内尾さん:はい。姉が小学1年のときに、先にクラブチームでバスケを習い始めました。姉の練習が終わるころになると、母は僕を学童に迎えに来てくれて、そのまま体育館へ姉を迎えに行っていました。そのうちに、まわりの人たちが自然と「お姉ちゃんがやってるんだから、聡理もバスケやるよね?」という雰囲気になっていったように思います。

 

── 最初は周囲の雰囲気に押されてチームに入ったのですね。その後、どの段階でバスケへのスイッチが入り、自分から「やりたい」と思い始めたのですか?

 

内尾さん:バスケを始めて2年ほど経った小学3年のころだったと思います。姉が小学校を卒業したタイミングでした。それまでは、そこまでバスケに打ち込んでいたわけでもなくて、自分のなかで「やめるかもしれないな」と思っていた時期もありました。でも、シュートが入るようになって、試合に出る機会が増えていくうちに、「楽しい」と思えるようになったんです。

 

内尾聡理
小学時代の内尾さん。シュートを決めることが増えてどんどんバスケに夢中に

ちょうどそのころ、クラブチームの人数が減って、運営が厳しくなった時期がありました。それでも、なんとか定員ぎりぎりの人数が集まってバスケを続けられることになって、本当にうれしかったのを覚えています。その後、母から「続ける?」と聞かれたときに、「バスケやりたい!」と強く思えたのも、その経験が大きかったです。