両親がろう者で自身は耳が聞こえる「コーダ」でもある、お笑いタレントの大屋あゆみさん。前職は市役所で設置手話通訳者。しかし、ひょんなことからお笑い芸人の道へ。現在は手話と笑いを融合させた「劇団アラマンダ」も主宰しています。(全3回中の3回)
うつ状態で苦しいときに見た吉本の開校CM
── 大屋さんは現在、沖縄でお笑いタレントとして活動されています。ご両親がろう者で子どものころから手話通訳をしていたそう。その経験を活かし、以前は「市役所で設置手話通訳者」 として働いていたとうかがいました。そこからお笑い芸人になったきっかけを教えてください。
大屋さん:じつは、お笑い芸人になりたいと考えたことはありませんでした。人を笑わせるなんて、私にはムリだろうと思っていました。でも、子どものころから芸能界に憧れてはいて。ちょうど沖縄アクターズスクール出身の安室奈美恵さんやSPEEDさんが一世を風靡していたこともあり、テレビに出るタレントになれたらいいなと、ばくぜんとは思っていました。
同時に「ろう者と健聴者の橋渡し役となる仕事をしたい」という夢も抱いていました。ずっとろう者である両親を手話でサポートしていたので、この強みを生かしたいと考え、市役所の設置手話通訳者となりました。
でも仕事や人間関係がハードで…。2011年にはうつ状態になり、家に引きこもりがちだったんです。ちょうど東日本大震災もあり、テレビやニュースではずっと災害の様子が報道されていた時期でした。世間の空気も、悲しみに満ちていて…さらに追い詰められました。もちろん沖縄在住の私自身は直接被害を受けていないのですが、3日間一睡もできないほど切羽詰まった状態になってしまって。周囲からは病院に行ったほうがいいと勧められました。

── 当時は誰もが苦しい状況でした。大屋さんも仕事で大変な思いをしていた時期と重なり、とてもつらかったと思います。
大屋さん:病院に行くと、待合室でテレビが流れていました。震災のニュースがつらくて、テレビを観ないようにずっと下を向いていたんです。すると急に明るい音楽が聞こえてきて。顔を上げると「吉本興業が沖縄に養成所を開校します。一期生募集中!」というCMが放送されていました。落ち込んだ精神状況のときに、その楽しそうな様子はひとすじの光のように感じられました。言葉ではうまく説明できないものの、雷に打たれたように「私が進むべき道はこれだ!」と、直感したんです。子どものころ夢だったタレントになりたいと思い、帰宅してすぐに養成所について調べてみました。