廃屋のような家の7畳1間で5人が寝起き

── 目の不自由なおばあちゃんのお世話をするというのは、今でいう「ヤングケアラー」だったと思うのですが、具体的にどんなお手伝いをされていたのですか?

 

清人さん:夕飯の買い物は必ず一緒に手をつないで行っていました。膝の具合が悪く、すぐに水が溜まるようだったので、週3回は病院の送迎もありました。月末になると公共料金や家賃の払い込みも僕がしていました。当時は周囲にコンビニはありませんでしたし、ガス屋、米屋、大家さんなどを一軒ずつ回っていたんです。でも、みんな「おばあちゃんのお手伝いしてえらいね」「すごいね」と言ってかわいがってくれましたし、お菓子やジュース、ときにはこづかいをもらえるので、それが楽しみでしたね。

 

── 借りていた家はどのような間取りだったのですか?

 

清人さん:7畳1間におばあちゃん、僕、3人のおじさんの5人で寝ていました。家のあちこちにすき間があり、四季折々の虫や草木などが入り放題で半分外のような状態。お風呂にはナメクジが大量発生するような家でした。廃屋だと思われて、不法投棄の粗大ごみを捨てられていることがありました。

 

── その家でおばあちゃんは、家事をひとりでこなしていたのですか?

 

清人さん:家事全般、何でもこなしていましたが、夕飯づくりは僕が補助をしていました。「それは塩」「こっちがしょうゆ」と言って手渡すようなことです。ほとんど目が見えない状態で調理をするので、ところどころ野菜が生煮えだったり、食品トレーに敷いてあるシートとか食材じゃないものが料理に入ったりしていることもありましたが、僕にとってはそれが日常でした。おじさんたちはそれぞれ仕事で帰る時間もまちまちでしたし、家事は母親任せという感じでした。

 

── とはいえ、まだ小学生なので放課後にお友達と遊べないのは寂しくありませんでしたか?

 

清人さん:本当にご近所さんにはチヤホヤされてかわいがってもらえたので、寂しくはなかったんですよね。お手伝いがあって友達と遊べないことに関しては、ある程度、諦めている部分はあるんですけど、やっぱりまだ子どもだからイライラすることもありました。友達みんなが放課後グラウンドに集合してサッカーをするような日は「頑張って早く用事を済ませたら、みんなと遊べるんじゃないか」と期待しながら走って帰るんです。すぐにチラシとペンを持って、ばあちゃんに「今日は僕、ひとりで買い物に行ってくるから早く買うもの教えて!」と聞くと「まだ献立が決まってなくて…自分で店に行かないとわからん」と言われるんです。

 

じゃあ早く行こうと手をつないで買い物に行くんですけど、ばあちゃんは早く歩けないし、スーパーではいちいち値札を読み上げないといけない。一周回るうちに、ほかの買い物客や店員さんなどいろんな人が話しかけてくるし、結局どんどん時間が過ぎて…。やっと買い物が終わったと思ったら、そういう日に限って通院の日なんですよね。僕はプリプリしながら病院へ行って、夕飯づくりの補助をして、やっとのことでグラウンドに駆けつける。するともう友達は帰り支度をしているという…。

 

── 手伝いを放り出して遊びに行かず、そこまでお世話をしてあげるのが偉いです!

 

清人さん:ばあちゃんは怒ったらしつこいんですよ。大人気ないくらいプイっとして無視するんです。後のこと考えたら怒らせたほうがめんどうだし、付き添ったほうがいいか、という考えでした。一度、病院について行かずに遊びに行ったことがあったんですよ。そのとき、めちゃくちゃ怒られて晩ご飯抜きになったので、お手伝いをさぼった代償がでかすぎると悟りました。