活発だった高校生のときにめまいやだるさで体が思うように動かない状態になった塚本明里さん。いくつもの病院を回り、3つの病気の診断を受けます。長時間、体を起こすことがままならない塚本さんですが、地元・岐阜でタレントとして活動するいっぽう、患者会を立ち上げるなど前向きで新たな挑戦に意欲的。その行動力を支えていたのは、いい意味での「あきらめ」の境地でした。(全3回中の1回)

「風邪」と診断された後もめまいやだるさが続く

── 塚本さんは筋痛性脳脊髄炎、線維筋痛症、脳脊髄液減少症という3つの難病を抱えているとのこと。どんな経緯で病気がわかったのでしょうか?

 

塚本さん:高校に進学してから、1年ほど頭痛が続いていました。「おかしいな」と思いつつ、病院に行くまでではないと思っていて。ところが高校2年生の春、テストの最中に急に目の前が真っ暗になり、動けなくなったんです。高熱が出て、担架で保健室に運ばれました。

 

かかりつけの病院では「風邪」と診断されました。だから、しばらく静養したら治るだろうと考えていたんですが、その後も微熱や頭痛、耳の下のリンパ節が腫れていて、体を動かすのもつらいだるさが続きました。登校できるような体調ではなかったのですが、私は学校が大好きで休みたくはなくて。それに推薦での大学進学を目指していたから一定の出席日数を確保する必要がありました。だから、それまでは徒歩と電車で登校していたのですが、母に車で送迎をお願いしたんです。

 

とはいえ、頭を持ち上げている状態を維持できないほどつらくて…。めまいや頭痛がひどく、階段を登るのさえ苦労していました。教室までたどり着けないことが多く、なんとか教室まで行って授業を受けても、15分ほどで具合が悪くなり始め、なんとか頑張っても2時限目には体を起こした状態でいることが限界になって、その後は保健室で横になっていました。後日、ほかの病院にもいくつか行ったのですが、結局、原因はわかりませんでした。今でも体を起こしていると限界がきて、いつ失神してしまうかわからないため、起き上がっているのは、一度に30分を限度にして横になっています。

 

── なぜ原因がわからなかったのでしょうか?

 

塚本さん:あまり知られていない病気のため、医師にも病気に関する知識がない場合が多いようです。実際、私は病院で「精神的なもの」と言われることがありました。それで精神科にかかっても「あなたは精神科領域の病ではない」と言われて、病院探しはふりだしに。母があきらめず、9つの医療機関を回り16人の医師にかかって、発症から1年半後、ようやく三重県の病院で「筋痛性脳脊髄炎」と「線維筋痛症」という、ふたつの病気の診断がつきました。筋痛性脳脊髄炎は原因不明の強烈なだるさに襲われます。線維筋痛症は全身が強烈に痛む病気です。

 

── いくつもの病院を回ってくれたお母さんの努力は素晴らしいと思います。

 

塚本さん:私の場合、母が「この症状は病気だ」と確信していたようで。なぜかというと母の母、つまり私の祖母が同じ症状に苦しんでいたからだそうです。いつもつらそうで、病院へ行っても原因はわからないけれど、寝込んでいることが多かったんです。だから、体調不良を訴える私を見て「きっと同じ病気だ。昔は診断されなかったけれど、今なら医療が進んでわかるはず」と信じ、根気強くネットなどで病院を探してくれました。

 

私がこの病気を発症する体質だったのは隔世遺伝だった可能性もある、と患者会を立ちあげるときに相談にのってくださった医師が教えてくださいました。病気を「かわいそう」と思う人がいるかもしれませんが、私としては「おばあちゃんが頑張ってくれて、その姿を見てきた母がいるからこそ、ちゃんと診断につながったんだ」と思っています。

 

塚本明里
いつも支えてくれる母と一緒に

筋痛性脳脊髄炎や線維筋痛症の患者さんのなかには、20年以上も診断がつかなかった人がたくさんいて、私が発症から1年半で診断がついたのはまだいいほうです。病名が広く知られておらず、診断・診療できる専門医も少ないため、医療難民の患者さんが多いのが現状。筋痛性脳脊髄炎は、当時「慢性疲労症候群」という病名で誤解や偏見を受ける問題もあったため、病気の正しい理解を求め、啓発をする患者会を立ち上げました。

 

筋痛性脳脊髄炎と線維筋痛症と診断を受けてから5年半後(発症からは7年後)、担当した24人目の医師からあらたに「脳脊髄液減少症」という病気も診断されました。脳脊髄液減少症は、脳のまわりにある脳脊髄液が「減少状態」になるために、頭痛をはじめとする種々の症状が出現する病気です。頭をずっと持ち上げているとめまいに襲われ、倒れるおそれがあります。診断治療してくれる医師は少なく、治療法はありますが完治は難しい病です。