ドロ沼離婚で苦しんだ自身の経験を機に、1990年代に日本初の離婚カウンセラーになった岡野あつこさん。「同じように苦しむ人を出したくない」という信念からスタートさせた活動は、当初、偏見やバッシングの嵐に見舞われます。(全3回中の2回)
疫病神扱いで名刺を出しても門前払い

── 日本初の「離婚カウンセラー」として、90年代から夫婦関係の問題や離婚を考えている人のカウンセリングをしてきた岡野あつこさん。自身の壮絶な離婚経験から「同じように苦しむ人を出したくない」という思いが活動の原点だったといいます。ところが当初は偏見やバッシングの嵐。荒波のなかのスタートでした。シングルマザーとして奮闘するなか、どのように道を拓いていったのでしょうか。
岡野さん:離婚したとき、子どもはまだ3歳。とにかく食べさせていかなくちゃと、保険の営業として働き始め、電話代行やダイエット食品の販売なども並行しながら必死に働きました。その後、自分の離婚経験をいかし、離婚カウンセラーとして離婚相談所を立ち上げました。
あるとき、放送作家の友人から「離婚して頑張っている人の特集番組に出てくれない?」と声をかけられて。「バツイチパーティー」を開催し、番組で紹介されると大きな反響を呼びました。そこからテレビの出演依頼が増え、離婚問題でコメントを求められるようになったんです。
ただ、コメンテーターという肩書きで呼ばれるには、本を出していないとダメだと言われ、出会う人すべてに「出版社の知り合いはいませんか?」と聞いて回りました。500人以上に声をかけ、出版にこぎつけたのが初の著書『完全離婚マニュアル』(1995年)です。それがヒットして、活動の場がいっきに広がり、離婚カウンセラーという肩書も少しずつ浸透していったんです。
── まさに有言実行ですね。ただ、当初は、ネガティブな声が多かったとか。
岡野さん:そうでしたね。「人の不幸に乗じている」「関わったら不幸になる」と、まるで疫病神あつかい。名刺を出しても門前払いされることも多かったです。ですが私自身、実は大学卒業後に結婚しましたが、夫の浮気やモラハラで離婚したのに知識がなかったばかりに、慰謝料も財産分与もなく、完全に後手に回って「やられっぱなし」になってしまった。何も知らずに離婚に向き合うのは、これほど大変なのかと思い知り、「駆けこみ寺」のような場所が必要だと確信していました。だからこそ、批判されても信念は揺らぎませんでしたね。
── 世間からの偏見やバッシングは、どう受け止めていたのでしょう?
岡野さん:正直、心が折れそうになることもありました。離婚させるのが目的じゃない、相手の気持ちに寄り添って、未来を一緒に考えてアドバイスする職業なんだといくら説明しても、耳を傾けてもらえない。わかってもらうのに10年以上かかりました。
そもそも私は「離婚しないに越したことはない」という考えなんです。だから、相談者が離婚を望んでいても、一度は立ち止まるように伝えます。冷静になれば、見えてくるものがあるからです。相手がどうしようもない場合は別ですが、そうでないなら関係を見直す余地がある。いろんな可能性に目を向けることが、後悔しない選択につながります。実際に修復して幸せに暮らしているご夫婦もいれば、次の人生に進んだことで新しい幸せをつかむかたもいます。