1994年第21代クラリオンガールとしてデビューし、深夜バラエティ番組『ワンダフル』の初代MCとしても活躍した原千晶さん。2度のがんを経験をして、現在はがんの啓蒙活動にも力を入れていますが、高校時代ささいな出来事から逃げるように学校を辞めざるを得ない出来事がありました。(全4回中の1回) 

逃げるように学校を辞めたのが正直なところ

原千晶
現在は婦人科系のがんを患った女性が集う「よつばの会」を運営している原千晶さん

── 1994年、第21代クラリオンガールとしてデビューし、深夜のバラエティ番組『ワンダフル』の初代MCとしても活躍。明るく飾らない笑顔で親しまれてきた俳優・タレントの原千晶さん。2度の子宮がんを経験し、現在はがんの啓蒙活動にも力を注いでいます。そんな原さんには、これまであまり語られてこなかった高校時代の苦い記憶があるといいます。どんな学生生活だったのでしょうか。

 

原さん:実は、最初に入った私立の女子校を1年生の途中でやめて、別の学校に入り直しています。きっかけは、夏休みに起きた友達とのトラブルでした。ささいな行き違いから関係がこじれてしまい、クラス全員から無視されるようになってしまったんです。昼休みにひとりでポツンとお弁当を食べる時間がとてもつらくて、学校へ行くことが怖くなってしまい、2学期の途中から不登校になりました。気持ちが沈み込み、部屋にひきこもって、時間が過ぎるのをただ待つ日々でしたね。

 

── 10代のころは、友達や学校の存在が、世界のすべてのように感じられる時期だと思います。そんななか、高校1年生で学校を辞めるというのは、大きな決断だったでしょうね。

 

原さん:そうでしたね。両親とは何度も話し合いました。先生も「戻ってきて」と言ってくれましたが、結局、出席日数がたりず、進級できなかったんです。「学校においでよ」と電話をくれる友達もいました。けれども、どうしても足がすくんでしまって玄関から出られない。「ひとりでいたってかまわない」という強さが、当時の私にはなかった。友達と口をきけない、無視される。その状況は、まるで「死」を宣告されるようなものでした。だから、いたたまれなくなって、逃げるように学校をやめたというのが正直なところです。

 

両親は、そんな私の気持ちを理解してくれました。「やめてもいいんだよ」と言ってくれたことが、本当にありがたかったです。でも、せっかく私立に入ったのにすぐにやめてしまって、金銭的な負担をかけてしまったことは、いまでも申し訳なく思っています。

 

── 当時の出来事は、原さんのなかでは、どんな記憶として残っていますか?

 

原さん:あのころは、学校が自分のすべてだったので「生きるか死ぬか」くらいに悩みました。でも、辞めた後も私のことを気にかけて連絡をくれる子がいたんです。ありがたかったですね。その後、タレントとして名前が出るようになってから「テレビで見たよ」と声をかけてくれる子もいて。昔話をするうちに「つらいことばかりじゃなく、笑い合った時間があったな」と思えるようになりました。今でも最初の高校での友達に会うことはありますが、母親になったり、おばあちゃんになった子もいたりして、時の流れを感じます。