「子どもと一緒にいたい」。そう思って仕事をセーブしていた松本伊代さんでしたが、ふと観たテレビの歌番組が、再出発をあと押ししてくれたといいます。ずっと離れていた歌と、もう一度向き合おうと思えた日。そしていつのまにか、その情熱が「あの人」にも伝わっていたそうで…。(全3回中の3回)

出産でキャリア中断「焦りはなかったけれど」

松本伊代
デビュー40周年の前後から本格的に音楽活動を再開した松本伊代さん

── 松本さんはヒロミさんと結婚後、1995年に第1子を出産されます。その後はお仕事にすぐ復帰されたわけではなかったんですよね?

 

松本さん:そうなんです。単純に子どもと一緒にいたかったんですよね。朝起きて、お世話して、幼稚園に送り出して…。本当に、普通のお母さんと同じ生活をしていました。お弁当も毎日作っていましたよ。味つけがちょっと苦手なので、おいしくなかったかもしれませんが(笑)。

 

── 子どもたちのお弁当は、どのくらいの期間作られていたんですか?

 

松本さん:幼稚園から高校くらいまで、ずっとです。毎日のことだから、メニューには本当に悩みました。ある日、焼きそばをお弁当に入れたら「全部くっついてた」って子どもに言われちゃって。「あぁ、そうなるか…」って。みなさん、焼きそばってどうやってお弁当箱に詰めてるんでしょうねぇ(苦笑)。

 

── そんな子育てを経て、お仕事に復帰された最初のタイミングは?

 

松本さん:子どもが1歳のときに、モノマネ番組の司会をやったのが最初の復帰でした。あのときのことは、今でもよく覚えています。

 

── 久々の現場復帰は、やはり印象深かったんですね。どのくらいのペースでお仕事をされていたんでしょうか。

 

松本さん:3か月に一度くらいですね。タレント業が多かったです。「頼まれたお仕事だけ」と決めて、セーブしながらやっていました。

 

── デビュー当時から継続的に新曲を出されていましたが、結婚前後で歌の仕事はパタッとされなくなりました。

 

松本さん:そうなんです。もともと歌は意欲的にやっていたんですが、当時は私自身が(代表曲の)『センチメンタル・ジャーニー』(作詞/湯川れい子)をあまり歌いたくないという時期でもあったんです。年齢は重ねているのに♪伊代はまだ16だから♪という歌詞に少し抵抗が出てきてしまっていました。

 

── 歌手としてのキャリアが途切れてしまうことに、焦りはなかったですか?

 

松本さん:私はあまりなかったほうだと思います。でも歌うことは好きだったので、家ではよく歌っていました。次男を出産したころにテレビで歌番組を観ていたら、ほかの歌手の方たちが代表曲を楽しそうに歌っていて。「ああ、自分もこうやって『センチメンタル・ジャーニー』を歌っていけばいいんだな」と思えて、初めて自分のキャリアを客観的に見られるようになった気がします。そこから「またちゃんと歌ってみよう」と思い始めました。

 

松本伊代
デビュー40周年記念てに『センチメンタル・ジャーニー』をセルフリメイクした

── 歌うことへの思いは、ずっと持ち続けていたんですね。

 

松本さん:コンサートをいつできるかはわからなかったけれど、「またいつか歌の仕事が来たらやろう!」と決めていました。ヒロミさんのお母さんに子どもたちをお願いして、ボイストレーニングに通っていたこともあります。その後、歌のお仕事が徐々に増えてきて、本格的にボイトレも再開して、歌番組などにも出るようになりました。

 

── ヒロミさんには、キャリアのことを相談したんでしょうか?

 

松本さん:相談しました。あるとき、バラエティー番組で『センチメンタル・ジャーニー』を歌うというオファーがあって、「こういう番組で歌うのって、どう思う?」と聞いたことがありました。もし歌詞を間違えたら罰ゲームがあるという企画だったので、私としては『センチメンタル・ジャーニー』がちょっと粗末に扱われている気がして嫌な気持ちがあって…。でもヒロミさんに相談したら「そんなおいしい話ないじゃないか!」って(笑)。

 

── さすが芸人さんですね(笑)。

 

松本さん:ですよね(笑)。でもその言葉で「ああ、そういうふうに出ていったほうがいいのかも」と私も思えてきました。ヒロミさんはずっと「せっかく自分の歌があるんだから、やっぱり歌っていたほうがいいよ」って言ってくれるんです。