「このまま寝たきりの可能性が高いです」。生後40日で息子の脳性まひを告知された看護師の柴田直美さん。そこから懸命にリハビリを続け、身体機能は向上するも、幼稚園の入園を断られることが続いて── 。(全2回中の1回)
「はっきり説明していただいて大丈夫です」

── 産婦人科の看護師として勤務経験があり、現在は訪問看護ステーションを運営する柴田さん。柴田さんは2人の娘と、1人の息子の母でもありますが、長女を出産する前には、子宮外妊娠を1回、流産を3回経験されたと聞いています。また、長男は妊娠31週の早産で、生まれたときの体重は1480グラム。検査をした結果、脳性まひと診断されました。まず、診断が出るまでの状況について伺わせてください。
柴田さん:息子は帝王切開で出産しましたが、早産だったため、NICU(新生児特定集中治療室)に入りました。私は出産から2週間で退院しましたが、長男は2か月くらい入院していたんです。
── 長男が脳性まひと告知されたのはどのタイミングだったのでしょうか?
柴田さん:生後40日になるころ、MRIの結果を聞くために病院に行きました。先生は「息子さんの頭の状態を調べました。赤ちゃんの脳は無限大なので、これからどんないい方向に進むかわかりません」と言って、いきなり脳性まひの話はしませんでした。先生は言葉を選びながらお話をされているようだけど、「無限大ってなんだろう」と、聞いているこちらとしてはモヤモヤしてしまって。「言葉を選んでお話しされているのはわかりましたが、はっきり説明していただいて大丈夫です」と伝えたんです。
すると、先生が「わかりました」と言って、いったん部屋を退室。看護師さん2人を連れて部屋に再び戻って来ました。「これは何か重大なことを言われるな…」。私の看護師の経験上、医師が何か話をして患者さんがショックを受けそうな場合、あらかじめ看護師が患者さんのそばにいることがよくあるんです。患者さんの手を握ったり、肩をさすったりしながら何かしら精神的なフォローをするんですね。
看護師が揃ったところで、「息子さんは脳性まひです」と先生から告げられました。脳性まひのレベルが軽度で1、重度で10だとしたら、息子は7か8くらい。今後は立ったり歩いたりすることは難しく、寝たきりになる可能性が高いと言われ。
── 告知をされていかがでしたか?
柴田さん:その場で泣き崩れることはなく、話を淡々と聞いていたと思います。まず頭に浮かんだのは、2人の娘のことでした。当時、長女が幼稚園の年長、次女が年少でしたが、休みのたびに家族で遊びに行ったり、外食したり、ときどき旅行もしていました。でも、これからは息子のお世話があるから今までのように娘たちを楽しませることは難しいだろうなって思いました。また当時、私と娘たちは福岡に住んでいましたが、夫は鹿児島で単身赴任をしていたんです。夫には先生から告知を受けた後、病院の駐車場で電話をしました。夫も冷静な人なので、電話だから姿は見えなかったけれど、たぶん取り乱さずに話を聞いていたと思います。
── 1月に長男が誕生し、約2か月の入院を経て3月に退院。自宅での生活がはじまりました。生活は大きく変わりましたか?
柴田さん:はじめはほとんど変わらなかったです。首が座るとか一つひとつの成長は遅かったものの、人工呼吸器や胃瘻(ろう)など医療的ケアがまったくなかったので、娘たちと同じようにお風呂に入れたり、ミルクを飲ませたりしていました。先生には「普通の子と同じように育ててください」と言われましたが、このまま寝たきりになると言われているし、本当にこれでいいのかな、とすごく戸惑った記憶があります。
翌年4月からは私と娘も鹿児島に移住して、家族4人で暮らすことが決まっていました。鹿児島に移住する前に息子の病院を探しておこうと思い、脳性まひに詳しい病院を見つけたので受診してもらうことになったんです。
病院では今までリハビリをしていなかったことに驚かれ、入院しながら早急にリハビリを開始することになりました。私は鹿児島の病院で息子につきっきりになったので、娘たちは私の実家でみてもらうことに。約4か月の入院でしたが、その後も継続してリハビリをしたおかげでハイハイの姿勢ができたり、何かにつかまりながら立てたりと、身体機能が上がっていきました。退院後は訪問看護のリハビリを続けながら、幼稚園を探すことになりました。