「肌がかゆくて掻きむしり、いつも目やおでこから血が出ていた」という元体操選手の内村航平さん。体操で華やかな活躍したいっぽうで、子どものころから重度のアトピー性皮膚炎に悩まされたと母・内村周子さんは語ります。(全2回中の1回)

今思えば、生まれた当時からアトピーだった

長崎純心女子大学院では心理学を学んだ。卒業式に教授と一緒に

── 息子の内村航平さんは、体操選手として2008年の北京オリンピックから4大会に連続出場。個人総合2連覇を含む7つのメダルを獲得し、2022年に引退されました。華やかな活躍をするいっぽうで、子どものころは重度のアトピー性皮膚炎で悩まされたと聞いています。航平さんがアトピー性皮膚炎を患ったのはいつごろからでしたか?

 

内村さん:航平は、今思えば生まれつきアトピー性皮膚炎だったと思うのですが、航平が生まれた36年前は「アトピー」という言葉が今のように浸透する前だったんです。でも、いつも頬やこめかみ、口や目の周りもカサカサしているし、顔の赤みもあったので、航平が生後4か月のころに皮膚科に連れて行きました。医師には、「肌が弱いから清潔にして、保湿クリームを塗ってください」と言われ、処方された保湿クリームをもらってしばらく様子を見ていましたが、全然よくなりませんでした。

 

── アトピー性皮膚炎はさまざまな理由から発症すると聞いています。当時の生活環境はいかがでしたか?

 

内村さん:航平が3歳のときに、私たち夫婦で「スポーツクラブ内村」という体操クラブを長崎で開き、航平もそのタイミングで体操をはじめました。当時は運営をはじめたばかりでお金がなく、私たちがお世話になっている方からの紹介で借りた土地があったので、そこに船舶運搬用の大型コンテナを4つ並べて、自宅兼体育館にしたんです。知らない人が見たら、コンテナがカラオケボックスに見えた人もいるらしく、外から様子をのぞきにくる人もいました。

 

体育館の中にには体操器具が置いてありますが、館内に7畳程度のスペースを区切って家族で生活していました。夏は暑く、冬は床が結露したこともありました。電気代を抑えるためにクーラーもつけていなかったんです。部屋は湿気だらけでその辺にカビは生えるし、キノコやコケも生える始末。不衛生なので虫やネズミはしょっちゅう出ました。コンテナハウスは、航平が小学5年生になるまで住んでいて、体操はすぐ練習ができますが、アトピーにとってはよくない環境だったと思います。

 

── なかなかハードな環境のようですね。アトピー性皮膚炎と診断がついたのは航平さんが8歳、小学3年生のときだったそうですね。

 

内村さん:そのころには世間でもアトピーという言葉が少し知れ渡るようになっていて、やっと診断名がつきました。医師には「まずは清潔にしてクーラーを入れてください」と言われて、すぐにつけました。

 

航平の幼少期には、アトピーの知識がなかったので、今では控えたほうがいいと言われる食材を離乳食に使っていたこともありました。でも、診断名がついたあとはできる限りの配慮はしたつもりです。お米は玄米を、お砂糖は黒砂糖を使ったり、知り合いから勧められた塩を取り寄せたり。ただ、食べたいものが食べられないことでストレスも溜まってしまうかもしれないので、ある程度、許容として、心の栄養にとチョコなどはたまに食べさせていました。

 

学校の給食もアトピーを考えたら控えたほうがいい食材も入っていたかもしれませんが、そこはもう仕方ないなって。普段から清潔にしつつ、悪化したらそのときは皮膚科に行こう!くらいで過ごしていました。