唇や口蓋が割れた状態で生まれる「口唇口蓋裂(こうしんこうがいれつ)」という病気を持つ大阪府在住の小林えみかさん(31)。ストレスで円形脱毛症になったこともある小学生時代でしたが、中学に入るとさらに自分自身がコンプレックスとなり、学校へ行けなくなりました。自分で自分を傷つける日々を救ってくれたのは、高校で出会った「ギャル友」でした。(全3回中の2回)

 

※本記事は「自殺」に関する描写が出てきます。体調によっては、ご自身の心身に影響を与える可能性がありますので、閲覧する際はご注意ください。

クラスで孤立し「自分で自分を傷つけるように」

小林えみか
着物を着て京都散策を楽しむえみかさん(2020年11月)

──「口唇口蓋裂(こうしんこうがいれつ)」という病とその合併症のため、小林さんは生まれつき唇や鼻、耳がない状態で生まれたそうですね。手術は生後3か月から始まり、これまで21回も受けたとか。小学校時代は見た目や話し方をからかわれたことがあったそうですが、中学に進学した際の学校生活はいかがでしたか?

 

小林さん:中学校は、2年生の途中から行けなくなりました。1年生のときは仲のよい友達が同じクラスにたまたまいたので、それなりに楽しく学校生活を送れていたんですけど、2年でクラス替えしたらクラスに知り合いがいなくて…。担任の先生も生活指導担当の厳しい雰囲気だったので、あまり相談することができませんでした。クラスメートは私のことを「あの子、前から顔は見たことあるけど、どんな子やろう」と遠巻きに距離を置いてみているような感じでクラスになじめず、孤立してしまったんです。

 

思春期ということもあり、誰がかっこいい、誰がかわいいというルックスの話や恋愛についてが話題の中心。今までの「一緒に遊んでいて楽しい」という友達づき合いとは違うんだ、私はその話題に入ってはいけないんだ、と心に引っかかりができました。また、家庭内でも共働きの両親は家にいない時間が多く、夫婦ゲンカが増えていた時期でもあったので、自分の心が休まる場所がなくなってしまいました。そのころから自傷行為を始めました。

校門から一歩踏み出せず「学校が怖い」と不登校に

── 学校にも足が向かなくなったと。

 

小林さん:自分なりにがんばって学校に行こうとする日もあったのですが、校門の前に立ったらもう吐き気がして「学校が怖い」と足がすくんで入れなくて。前もって学校に「何時間目から行きます」と伝えていた日は担任の先生が門まで迎えに来てくれたのですが、どうしても自分から一歩を踏み出せませんでした。そういうときは抱えられながら学校へ入ったんですけど、すぐに「無理、無理、無理!」と、しんどくなってしまって帰宅しました。

 

最初のころはお腹が痛い、体調が悪いなどと言っていたのですが、ずっと休んでいるので親も途中から気づきますよね、体調が悪いだけではないな、と。でも、私から「今は学校に行きたくない。クラスになじめない」とは言わないし、親も理由を聞いてこなくて「学校へは行きなさい」と言うばかり…。「なんで行かれへんの?」「早く行きなさい」「もう何時間目からでも、途中からでもいいから行きなさい」「とりあえず行って、何時でもいいから帰ってきなさい」と、ずっと言われていました。お互いがいっぱいいっぱいな状況だったので、「あのときもっと話を聞けばよかったと後悔している」と、母は言っています。

 

── そうだったのですね…。親にも言えず。

 

小林さん:いま思えば、精神的につらいということを親に言えたらもう少しラクになれたかもしれないんですけど、学校へ行けない理由も自傷行為も言えませんでした。毎晩、風呂場でシャワーの音でかき消しながらワンワン泣いていました。幼少期から病気のことで親にはずっと心配をかけてきたので、自分のメンタルの問題でさらに心配をかけるっていうのが、やっぱりすごく申し訳なくて。つらい思いは自分だけにとどめておこうと思ったんですよね。言わないことが親への気づかいだと思っていたんです。

 

── お友達にも気軽に相談しにくかったんですね。

 

小林さん:仲がいい友達とはクラスは離れても連絡をとっていたので、心配してくれたのですが…悩みの理由が特殊だから相談できなかったです。病気のことで学校に行けないと言っても、友達はどう返したらいいか困るだろうし、共感しにくいし、わかってくれないんじゃないかな?と決めつけていた部分があります。

 

実は、同じ中学にもう1人、同じ病気の男の子がいたんです。パッと見ただけで口唇口蓋裂の症状がわかる子だったのですが、その子はめちゃくちゃ明るくて友達も多かったんです。私はクラスになじめなくて孤立して不登校になってしまったけれど、たぶんその子は不登校になっていなかったと思うんです。そこがうらやましくもあり、友達もできず不登校になってしまうのは自分の性格のせいなんだろうな、と比べて落ち込んでいたこともありました。

 

── 学校側の対応はどうだったのですか?

 

小林さん:保健室や支援学級の先生たちが心配してくれて、私に連絡をくれたり、母にも電話で「どんな感じですか?」と聞いたりとサポートをしてくれました。母はひとりで学校へ行って面談をしていたので、学校の先生に私の状況を話す機会があったのは助けられたと言っていました。

 

学校からは「どんな理由であれ、本人が学校へ行きたくないのであれば、無理に来なくてもいいんですよ」というようなことを言われたみたいです。そこからは親も「学校へ行きなさい」とは言わず、タイミングを見ていたようです。親は親なりに自分の友人や周りの人に相談した結果、「今は見守ったほうがいいよ」と多くの人に言われたよう。何か言っても心が変化するわけではないだろう、とも思ったのかもしれません。

 

── 学校へ行けない期間はどのくらい続いたのですか?

 

小林さん:中学2年生の2学期から、結局、卒業するまでは不登校でした。3年生のクラス替えの際、仲のいい友達が同じクラスになれるよう配慮してもらったのですが、何日かがんばって登校してみたものの、精神的につらくて…。やはり1年近く学校へ行けなかったブランクと、そのなかで自分の病気に対するコンプレックスがどんどん大きくなっていったのが原因じゃないかと思います。また、生徒や先生がいっぱいいる場所には絶対に行けない、思い返せば対人恐怖症のような状態になっていました。そのまま卒業の日を待ち、卒業式にも出席せず、他の生徒が帰ったあとの校長室で、個人的に校長先生から卒業証書を受け取りました。