まだ自分にもできることがあるのかもしれない

── 休養期間中はどのように過ごされていたのでしょうか?
兒玉さん:最初の半年間は実家で何もせずに過ごしていました。1日のほとんどをベッドの上で過ごすような生活で、たまに母の誘いで散歩に行ったり、通院のために外に出たりするくらい。散歩でさえ億劫に感じる日もあり、「起きてご飯を食べて寝るだけ」という、生きるためだけに生活をするという感じです。
半年くらいそのように過ごしているうちに、理由なく泣いたり、悲しくなったりすることが徐々に減ってきました。健康的な生活は少しずつできるようになってきたものの、人とコミュニケーションを取ったり、仕事をしたいと思ったりするような状況にはまだなれませんでした。当時は、アイドルはもちろん、社会復帰も難しいのだろうと思っていました。
── そんな状況から脱却するにあたり、なにかきっかけがあったのでしょうか?
兒玉さん:1年くらい経ったころに、「時間もあるし宮崎にある祖母の家の近くで自動車の運転免許を取ろう」と、ふと考えました。そこで教習所に通ってみたら、自分が思っていた以上に運転が楽しくて。それで「もしかしたら私にもまだできることがあるかもしれない」と少しずつ自信を取り戻していきました。
とはいえ、当時はまだ芸能界に戻るつもりはありませんでした。なので、ピラティスやヨガインストラクター、心理カウンセラーの資格など、今後働くために役に立ちそうな資格を取ろうと、いろいろと取り組むようになりました。
── 結果的に芸能界に復帰されたのはなぜなのでしょうか?
兒玉さん:2年半、しっかりと休養をとったことで薬が必要ないほど、元気になりました。母の存在も大きかったです。母はずっと明るく前向きに私のそばにいてくれました。このままじゃ私が消えてしまうと思い、毎日おいしいご飯を作って、たくさん食べさせてくれましたね。私が治ると信じて、ずっと寄り添ってくれていました。
元気を取り戻してきたころ、資格もたくさん取ったし、いまなら「何者にでもなれる」と思えたときに、自分のルーツについてじっくり考えてみたんです。これまでの自分を振り返ってみたときに、小3のころから将来の夢はタレントと書いていたし、私は人前に立って自己表現をするのが大好きだったなと気づきました。それで、もう一度チャンスがあるのであれば、芸能界で頑張ってみたいなと思い、復帰を決心しました。
── 復帰はHKT48のメンバーとしてではなく、女優として、でしたね。
兒玉さん:私が休んでいる2年半、HKT48を支えてきたのはそのときにいたメンバーたちです。そのような場所にどのような顔をして戻ったらいいのかわからないし、自分の居場所があるかもわからないなという気持ちがありました。
普通は卒業公演などをして辞めるのが理想なのですが、あえて、女優として復帰することになりました。グループで活動すると自分と周りをまた比べてしまい、自分を追い詰めてしまうことがあるかもしれないので、事務所と話し合って、個人としての活動を選びました。
女優としてソロで活動するなかで、今では前ほど落ち込むようなことはなくなりました。お芝居の経験はほとんどなかったので、一生懸命に稽古をして、演技について探りながら学んできました。「まだまだ自分は未熟者だからできなくても仕方がない」と考えて、以前のように自分を追い込みすぎないように意識して仕事に取り組んでいます。
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2年半の休養を経て芸能界に復帰した兒玉さん。再び仕事が充実した今、将来のことを踏まえて卵子凍結を決意します。しかし、1度目はまさかの失敗。2度目は術後に激痛を伴ったものの、無事に成功します。凍結した卵子を将来使うのかはまだわからないそうですが、未来の選択肢を増やすことにも繋がったそうです。
取材・文/酒井明子 写真提供/兒玉遥