「これからは毎日、はながみそ汁を作るんよ」。4歳の愛娘・はなさんにみそ汁の作り方を教えた母の安武千恵さん。その後、33歳の若さで天国へと旅立ちますが、その思いを託した1杯のみそ汁は、17年経った今、はなさんらしい形で子どもたちへと届けられ、笑顔を広げています。千恵さんの夫・安武信吾さんにお話を伺いました。(全3回中の2回)
「はなが病気を教えてくれた」
── 妻の千恵さんは、25歳で乳がんと診断された際、医師から妊娠・出産は抗がん剤の副作用で難しいと言われたそうですね。それでも、7か月にわたる抗がん剤治療を乗り越えたあと、奇跡的に妊娠され、2003年2月に娘のはなさんをご出産されました。
安武さん:抗がん剤治療がいったん終わった後、生理が戻ったのち妊娠がわかったので、妊娠中から出産してしばらくは経過観察の状態でした。いっぽう娘は、生まれてから病気ひとつせず、元気に育ってくれました。ただ、生後半年ごろ、母乳をパタっと飲まなくなったんです。不思議に思ったものの、それならと授乳している間は受けられなかった胸部レントゲン検査のため病院に行きました。そうしたら、がんが肺に転移していることがわかって。
妻は「はなが病気を教えてくれた」と思ったようです。僕もそんな気がしました。そのあとは、家族3人で病気と向き合いました。

── 治療を模索するなか、一般的ながんの標準治療の代わりとなったり、補完したりする「代替療法」と出合ったそうですね。特に、自然治癒力を高めることが期待される食事の内容を意識して、早寝早起きと、安武さんが作るみそ汁と玄米ご飯の朝食が習慣になったとか。みそ汁のだしは、昆布やカツオ節から取って。
安武さん:そうですね。再発後は、主治医に相談していったん抗がん剤治療を休み、ホルモン療法を選択しました。いっぽうで、免疫力を上げるため、セカンドオピニオンの指導のもと、規則正しい生活と食事療法を実践しました。苦しいこともあったけれど、ホルモン療法と食事療法を組み合わせた「併用型」のがん治療が奏功し、肺のがんが一度消えたんです。主治医も驚いていました。妻も少しずつ元気を取り戻して、僕は妻と「食べることは生きること」をテーマに食について深く考えるようになりました。
ところが、2006年に検査を受けると、肝臓と肺、骨にがんが転移していることがわかりました。妻は再び抗がん剤治療を受けることになり、同じ年の12月、ブログを立ち上げたんです。タイトルは『早寝早起き玄米生活~がんとムスメと、時々、旦那~』。ブログでは、病気のことや日々の出来事、娘への想いを綴っていました。
※千恵さんのブログは、現在、信吾さんのブログ『はなちゃんのみそ汁 official Blog by Ameba』からも閲覧できます。
娘が4歳になった誕生日から母はみそ汁の作り方を
── 千恵さんは再び抗がん剤治療を頑張りながら、ブログを書き続けていたのですね。
安武さん:娘が4歳になった日からは、妻が娘にみそ汁の作り方を教えるようになりました。誕生日プレゼントはエプロンと包丁です。まず、妻が台所に立つところを見せて、台所でにんじんを切ったり、大根をすりおろしたり。包丁や調理器具に慣れさせるところから始めて、娘の様子を見ながら、ガスのつけ方、みそ汁の作り方、と1年かけてゆっくり教えていきました。
── はなさんのペースを大切に、千恵さんがみそ汁の作り方を教えていったのですね。
安武さん:娘が5歳の誕生日を迎えると、妻は、娘に包丁を持たせて「やってごらん」と、毎朝のみそ汁づくりをまかせるようになりました。

娘がみそ汁を作っている間、妻は、手を出さず助けず、ただ静かに見守っていたようです。娘は「ママは怖かった。黙ってずっと見てるだけだった」と。味の加減も、妻は「自分の舌で味わってみて、薄いと感じたらたしなさい」とだけ言っていました。
妻は、みそ汁作りを通して、自分の頭で考えることを伝えようとしていたんです。まわりの人に流されず、自分の頭で考えるって、大人になっても大切なこと。妻は、娘にみそ汁作り「を」教えていたんじゃなく、みそ汁作り「で」教えていたんだなと思います。
── みそ汁作りを通して、自分で考えることの大切さも、はなさんは身につけていかれたのでしょうね。
安武さん:そう思います。娘は家族3人分のみそ汁を作って、椀によそって、食卓に並べるまで、全部ひとりでやっていました。楽しそうでしたね。「大人の仕事を自分もできる」「自分は役に立つ存在なんだ」と感じていたようです。そんな経験を幼いころにできるって、すごく大事なことだなと思っています。
しかも、親から「ありがとう」と感謝をされるんですよね。1日のスタートを迎える朝の食卓に「ありがとう」の言葉が飛び交う。幸せを感じられる食卓だと思います。子どもにとっては自尊感情が高まるような環境を妻はつくりたかったと思うんですよね。5歳の娘にとって台所仕事は、遊びの延長でした。絶好のタイミングだったと思います。