乳がん闘病中に命がけで妊娠・出産。愛娘・はなさんを5歳まで育てて、33歳の若さでこの世を去った安武千恵さん。病と闘いながら4歳のはなさんにみそ汁の作り方を教え、生きる力を伝えようとした千恵さんと家族の絆の物語を綴った『はなちゃんのみそ汁』はドラマ化・映画化され、大きな反響を呼びました。千恵さんが亡くなってから17年、夫の安武信吾さんに、はなさんを授かった当時の夫婦の思いを伺いました。(全3回中の1回)
つき合い始めて半年後に乳がん発覚
── 安武さんと千恵さんの出会いについて、教えていただけますか。
安武さん:妻と出会ったのは、1998年の初夏、妻が23歳、僕が34歳のとき。僕が西日本新聞社の宗像支局に着任して1年経ったころでした。福岡教育大学大学院声楽科を専攻していた妻が、自分たちで主催するコンサートを取材してほしいと支局を訪れたんです。笑顔がかわいい彼女に僕はすぐに惹かれて。ただ、その後はすれ違いが続いて、なかなか会えませんでした。1年後にようやく再会できてからは、毎日のように当時妻が住んでいた北九州に1時間かけて通いました。そのうち、お互いが結婚を意識するようになって。
── そうしてつき合い始めてから半年後、千恵さんの体調に異変を感じたそうですね。
安武さん:妻の左の胸にしこりがあることに気づいたんです。でも、当時はまだ20代半ばで「まさか」という思いがお互いにあって、病院に行くのを先延ばしにしていました。そんなとき、妻が声楽の恩師ご夫婦から食事に誘われたんです。恩師のご主人は循環器内科の医師でした。彼にその話をしたところ、「すぐ、専門医に診てもらったほうがいい」と強く勧められて。病院で検査した結果、乳がんが見つかり、妻の闘病が始まりました。
左胸の摘出手術後は抗がん剤治療の予定でした。主治医から薬の副作用について説明があり、「卵巣が機能しなくなるから、妊娠・出産は難しくなる」と言われたんです。妻は、呆然としていました。おそらく、自分の身に降りかかった現実を受け止めることで精一杯だったと思います。前を向く気力もない。でも、僕は妻と生きる人生しか考えられなくて。抗がん剤治療は、1クール3回点滴のサイクルを8クール行うものでした。それが7か月間続きます。治療を開始して3か月後の2001年1月、僕は妻の誕生日にプロポーズをしました。