泣き崩れる母の姿を見て覚悟を決めた

── そこから歌手に戻ったのは何かきっかけがあったのですか?
市川さん:兄の強い思いを受けたからです。脳性まひの兄は知的障がいもあったため、私が歌手を辞めたことが理解できなかったんですね。新曲も出さないしテレビにも出ないし、なんで毎日、妹は家にいてごはんを作ったりしているんだろうと。「いまはちょっとお休みしているんだよ」と伝えても、納得できなかったんです。
兄は友達に「妹が今度テレビに出るから見てください」というのが楽しみだったようなのですが、それができないのがストレスで、暴れるような発作が増えてしまいました。「なんで歌えないの?なんで?なんで?」と言いながら自分の頭をバンバン叩くことがあって…。妹は歌手であってほしい、歌手の妹を見たい、という兄の姿に毎日接しているうち、歌手に戻ろう、と決意することができました。
また、いったん歌うことから離れたことで、やっぱり歌が好きなんだ、自分のコアは歌なんだ、ということを再認識して「もう一度歌いたい」という気持ちになりましたし、精神的に安定していったというのもあります。
── お兄さんにとって、自慢の妹だったんですね。
市川さん:そうだったんだと思います。それで、もう一度ボイストレーニングから始めようと歌の師匠のところにお詫びに行きました。師匠のお力添えもあって、以前在籍していた事務所やレコード会社にも謝罪して「再出発させてください」とお願いして受け入れてもらいました。
兄も復帰を喜んでくれましたが、それから数年後、39歳で亡くなりました。
── 市川さんが歌手に復帰した姿を見届けて…。
市川さん:仕事で名古屋にいるときに、兄が亡くなったという連絡をもらいました。母は、私には連絡をしないでほしいと事務所の社長に伝えたみたいなのですが、社長は私と兄の関係や家族の絆を知っていたので、すぐに知らせて「帰りなさい」と言ってくれました。
帰ると母が泣き崩れていました。いつも明るい母がそんなに泣く姿は初めて見ましたし、やはりわが子が先に旅立つ親の悲しみは、計り知れないものがあると思いました。障がいを持つ兄を産んでからほとんど女手ひとつで育ててきて、いろんな苦労を乗り越えてきた気持ちがあふれたんでしょうね。
兄の存在が歌手活動の支えでもあったので、その兄が亡くなってしまったら私が歌手を続ける意味はあるのかな?と考えてしまったのですが、ワンワンと泣き声を上げる母の姿を見たときに「今度は私が母を支えてあげなくちゃいけない」と新たな覚悟が生まれました。この仕事をもっとがんばって続けて、母を養っていくんだという気持ちになりました。
兄の遺骨を抱く母を見て「1年後にお墓を建てよう」
── いままで見たことがないようなお母さんの姿を見て、歌手を続ける気持ちを新たにされたんですね。
市川さん:はい。兄が亡くなってからも、私は歌手としてまだまだでしたし、母子家庭でお金がなかったので、すぐにお墓を建ててあげることができなかったんです。お墓を建てるまでは遺骨がずっと家にあったのですが、母は毎日、骨壺をなでるようにして泣きながら過ごしていて。悲しみがなかなか癒えない様子を見て、私もつらかったです。自分のなかで、1年後にはお墓を建てようというのを目標にして、働いたお金を少しずつ積み立てて、どうにかお墓に納骨することができました。
母は、納骨するときも泣いていましたが、無事にお墓に入れてあげられたという安心もあったのか、泣いてる日が少しずつ減っていきました。
── 改めて、市川さんにとって家族はどんな存在ですか?
市川さん:この家族に生まれてきてよかったです。きっと、この母と兄じゃなかったら自分じゃないし、ここまでの経験はできなかったと思います。兄が障がいを持っていたということで、兄の友達やそのご家族のがんばりもずっと見てきていますし。そういった方々に自然に接することができるのは、やっぱり自分の家庭環境あってこそだと思います。
取材・文/富田夏子 写真提供/市川由紀乃