厳しいメジャーの世界「ともに戦う覚悟」で渡米
── 2011年10月に青木さんが長女を出産後、同年12月、青木選手はメジャーリーグのミルウォーキー・ブルワーズと契約しました。
青木さん:契約までは紆余曲折ありました。当時所属していた東京ヤクルトスワローズにメジャー挑戦の意向を伝えてから「ポスティングシステム(入札制度)」を利用しました。これは海外FA権(野球選手が所属球団以外の全球団と契約交渉を行える権利)を持たない選手が、所属球団を通してメジャーリーグ球団と交渉する制度のことです。
ミルウォーキー・ブルワーズからオファーがあったものの、契約前に「実際のプレーが見たい」と言われ、テストを受けることになったんです。「万が一、落ちたらメジャーリーグには行けないの?」と、ハラハラしました。それでも彼はしっかりと実力をアピールし、契約を勝ち取ることができました。

── 青木選手がメジャーリーグの晴れ舞台に立ったときはどんな気持ちでしたか?
青木さん:日本でプレーしていたときは、ありがたいことに毎日試合に出させていただいていました。それがメジャーリーグでは試合に出場できるかどうか、いい成績を残せるのか、緊張の連続でした。結果を出せなければ、契約をすぐに打ち切られてしまう厳しい世界です。いつも私自身が出場しているかのような気持ちで見守っていました。厳しい世界で戦う夫の背中を、ずっと押し続けようと決意する日々でもありました。夫と私は夫婦でありながら、一緒に戦う戦友でもあったと思います。
夫はメジャーリーグに挑戦した2012年〜2017年の6年間で、計7球団に所属しました。毎年、小さな子どもをふたり連れて、移籍先の球団がある土地に引っ越しをしながらの生活でした。複数年契約を結ぶ選手もいるなか、夫の場合は1年ごとの契約が多く、翌年はどこでどんなふうに過ごしているか、まったく想像ができないんです。でも、不安に思っていても仕方がありません。「人事を尽くして天命を待つ」ということわざどおり、全力を尽くして野球に取り組んだら、あとは結果を待つだけでした。
こうした先の見通しが立たない生活は、強い精神力が求められます。じつは、私自身も体育会出身で、子どものころから水泳に取り組み、オリンピックをめざしたこともあります。水泳でつちかったメンタルがすごく役に立ちました 。何か大変なできごとに直面しても、「なんでこんな目に合うのー!? つらいー!」と泣くのではなく、まずは「現状で私ができることはなんだろう」と考えるんです。
もちろん夫ひとりがアメリカで野球をに取り組み、私と子どもは日本で過ごす方法もありました。でも、私たちは何があっても家族で一緒に過ごそうと決めていました。たった6年の間で、子育てをして、夫のサポートもしながら、広いアメリカの端から端まで7回も引っ越しをしたのは、とても大変だったけれど、かけがえのない経験です。