元パートナーの余命はいくばく。そう聞いたらどう思うでしょうか。宮川一朗太さんは、葛藤の末、自宅で元妻を看取ることにします。「つらかった」「楽しかった」清濁合わせもった夫婦としての時間。そして、最期はあっという間に時間が過ぎ去りました。(全3回中の3回)

意識混濁な元妻「声が出たり、体を起こしたり」

── 離婚から20年。がんを患った元奥さんの容態が悪化するなか、「最期は自宅で過ごさせてあげたい」という娘さんたちの願いを受け入れ、自宅で看取る決断をされた俳優の宮川一朗太さん。ともに過ごした「最期の時間」について、あらためて伺ってもよろしいでしょうか。

 

宮川さん:終末期の元妻を自宅で受け入れるまでには、ものすごい葛藤がありました。でも、子どもたちの思いや彼女の容態などを鑑みれば、ほかに選択肢がなく「うちでめんどうを見よう」と決断しました。僕自身も相当な覚悟が必要でしたね。

 

元妻が家に来たのは、2023年の3月のこと。離婚後は南のほうで暮らしていましたが、2022年の秋ごろ、専門的な治療を受けるために上京し、私の家から車で30分ほどの距離にある東京の病院に入院していたんです。退院する数日前からは、すでに意識が混濁していて、耳もあまり聞こえなくなっていました。

 

ところが、不思議なことが起きたんです。そんな状態だったにもかかわらず、ベッドに移動させてくれた訪問看護のかたに、「ありがとうございます」と、はっきり声に出してお礼を伝えたというんです。病院では言葉を発することが厳しく、筆談状態だったので、まさかそんなふうに話せるなんて、と驚きました。

 

さらにその後、僕が様子を見に行くと、上半身を起こしていて。「ダメだよ、横になっていなくちゃ」と、あわてて寝かせました。家に来て安心したのか、それとも最後の力を振り絞って起きたのか。いまとなってはわかりませんが、人間の生命力をあらためて感じました。

 

宮川一朗太
2011年ドラマ『仁-JIN-』完結編での1ショット

── よく最期を迎える直前に、一時的に意識が戻ったり、体調がよくなったりする現象があると聞きますが…。

 

宮川さん:思えば、あれがそうだったのかもしれませんね。その夜は、長女が母親のそばで眠りました。ところが翌朝、「ちょっと危ないかもしれない」と娘に起こされたんです。急いで様子を見に行くと、すでに呼吸が浅く、弱々しくなっていて。呼吸の間隔もだんだん空いてきたので、最期の時間を、娘と静かに見送ることにしたんです。わが家に来て、わずか1日で彼女は旅立っていきました。

 

火葬の日は、偶然にも僕の誕生日だったんです。娘たちとも「きっとママが、自分のことを絶対忘れないようにって、この日にしたんだよ」なんて話していて。これから先、僕は誕生日を迎えるたびに、彼女のことを思い出すんだろうなと感じています。

「ケンカや恨みがあっても」魅力的な女性だった

── 元奥さんにとっても、きっと幸せな最期だったのではないかと思います。あらためていま、元奥さんはどのような存在として心に残っているでしょうか。

 

宮川さん:言葉にすると語弊があるかもしれませんが、「まったく本当に最後まで勝手なヤツだなあ」という気持ちですね(笑)。もともと豪快な人で「太く短く生きたい」と、昔からよく冗談まじりに言っていました。まさにその通りに生きて、旅立っていった。周りは大変でしたけど、それも含めて、彼女らしい57年の人生だったのかなと思います。

 

僕自身、ふだんは人と衝突したり、感情的になることはほとんどないのですが、彼女とは何度もぶつかりました。激しいケンカもしたし、振り回されて恨んだこともあります。でも、大切な娘たちに会わせてくれたのも彼女で、本音で向き合えたのも彼女だけだった気がします。それだけ感情をぶつけ合える関係って、人生にそう多くはないんじゃないかと思うんです。

 

宮川一朗太
まだ家族4人だったころ。当時から子煩悩なパパだった

── 人生には、本当にいろんな縁があるのだと感じます

 

宮川さん:離婚してからは連絡を取る機会は減りましたが、いまになって思うのは、やっぱり僕は彼女の自由さに惹かれていたんだろうなと。いろんな意味で、僕にとって特別な存在でした。

 

いまでも忘れられないできごとがあります。僕は長年、関西で競馬のテレビ番組の司会をしていたほど競馬が大好きなんですが、僕が30代半ばのころ、彼女が「1年間お疲れさま。これで有馬記念(年末の大レース)、勝負してきて!」と、クリスマスに10万円が入った封筒を手渡してくれたことがあったんです。さすがに全額突っ込む勇気はなくて、5万円分だけ馬券を買い、残りは一緒に食事をするのに使いました。自由で豪快で、僕にないものを、たくさん持っている魅力的な人でしたね。