52歳で急死した夫との約束

── 翔子さんが14歳のとき、お父さまが52歳の若さで急死されています。泰子さんのつらさも想像に余りありますが、翔子さんは父の死をどう受け止めたのでしょう。

 

金澤さん:主人は翔子の眼の前で倒れてしまったのですが、父の死をどこまで私たちと同じように理解できているのかは今もわかりません。ただ、いちばん星が出ると「お父さまだ!」と言ってぺちゃくちゃ話しかけていますよ。「お父さまはここ(心の中)に入っていて、魂でつながっている」と感じているようなので、少なくとも私ほどにはつらさを感じていないんじゃないかしら。

 

主人の突然の死は、私にとっては当然ながら悲しく悔しいことでした。でも生前の主人とひとつ約束していたことがあるんです。それは「いつか翔子の個展を開く」こと。その約束を支えになんとか頑張ってこられましたし、実際に翔子が20歳になったときに「最初で最後だから」という思いで個展を開くことができました。予想外だったのは、その個展がテレビや新聞に注目されて大勢の人が押し寄せ、そこから翔子が書家として羽ばたくようになったことです。

 

── その後の翔子さんの活躍は目覚ましく、国内外で個展を500回以上も開催し、2012年のNHK大河ドラマ『平清盛』の題字を手掛けるなど一般の人にも多く知られる存在に。30歳のときにはダウン症への理解を深めるため国連本部に招かれてスピーチもされています。

 

金澤さん:当時は記念のために個展を開いたものの、20歳の翔子が入れる施設を探して途方に暮れていた時期でしたから、まさかその後にこんな未来が待っているとはまったく想像できませんでした。成長した翔子の姿を主人にも見せてあげたかったですね。

 

国連のスピーチでロックフェラー・センターの最上階に登ったとき、忘れられない出来事がありました。「今まで登った場所でいちばん高かった場所は?」と誰かに質問された翔子は、「お父さまの肩車!」と答えたんですね。父親の愛の深さと、肩車が高かった記憶が、翔子の中にはしっかりと残っているんでしょうね。

 

 

「親が覚悟を持って、その子の力を信じ、手を離して見守る。それが本当の意味での子育てだと私は思っています」と語る金澤泰子さん。しかし、ダウン症の娘・金澤翔子さんの子育てにおいて、その境地に辿り着くまでには長く、苦しい道のりがあったそう。しかしおかげで、翔子さんは30歳にしてひとり暮らしを、そして40歳を過ぎた現在は夢だったカフェ店員として働いています。

 

取材・文/阿部花恵 写真提供/金澤泰子・ND CHOW