NHK大河ドラマ『平清盛』の題字などで、ダウン症の天才書家として注目された金澤翔子さん。母・泰子さんが彼女を出産したのは42歳のときでした。当時はまだダウン症に関する情報が乏しく、わが子の現状を医師から告げられたときは── 。(全3回中の1回)

「絶望」という言葉では到底たりなかった

「翔子さんは感受性が強く人の気持ちに敏感だ」と泰子さんは語る

── ダウン症の書家として国内外で活躍してきた金澤翔子さんを書の道に導いたのは、母である泰子さんだそうですね。一人娘の障害に、親としてどのように向き合ってこられたのでしょうか。

 

金澤さん:翔子を出産したのは私が42歳のときです。私たち夫婦にとっては待ち望んでいた出産でした。ところが、帝王切開で出産した直後に翔子はすぐさま遠方の救急病院へと運ばれてしまったのです。「心臓に穴が開いている」と説明されたのですが、それが本当かどうかは疑わしかった。それでも搾乳した母乳を冷凍して救急病院へ届ける日々が続きました。ようやく対面できたのは、産後52日目。けれどもその日、翔子が入院している病院で「娘さんはダウン症です」と初めて真実を告げられたのです。

 

ダウン症、つまり21番目の染色体が通常よりも1本多い先天的な疾患で、一生治らない知的障害である、と。

 

── そのときの心境を覚えていますか。

 

金澤さん:絶望でした。絶望という言葉では到底たりないほどにショックでしたね。ずっと願っていたわが子にようやく出会えるとわかったときから、私の心はずっと希望でいっぱいだったんです。女の子ならば将来はピアニストにしよう、なんて考えていましたから。それが「この子の障害は一生治らない」と唐突に聞かされたのですから。眼の前が真っ暗になりました。

 

今振り返れば、私自身がダウン症という疾患について何の知識も持っていなかったから、思い詰めてしまったのだと思います。翔子を出産するまでの42年間、私は障害を持つ人やダウン症の人と一度も接点を持ったことがありませんでしたから。

 

── 翔子さんが誕生した1980年代は、ダウン症に関する情報も今より格段に少なかったそうですね。

 

金澤さん:本当にそうでした。ダウン症について書かれた本はほとんどなく、ようやく見つけた1冊の翻訳書には「顔が醜い」とひどい言葉が書かれていて…。もうね、神さまを呪いました。胸の内を日記に書き続け、死ぬ方法を考え、地蔵巡りをして祈り続けて…まるで狂気のような日々でした。若いころからずっと書道を習っていましたから、ひたすら救いを求めてお経を書き続けることもありました。

 

── 翔子さんのお父さんはダウン症を持つ娘を授かったことに、どのようなお気持ちだったのでしょう。

 

金澤さん:主人は翔子が誕生した直後に、医師からダウン症であることを告げられたそうです。「娘さんは敗血症で交換輸血が必要な状況ですが、ダウン症という疾患を持っています。交換輸血をしますか、それともやめますか」と問われた主人は「これは神さまが僕に与えた試練に違いない。僕はこの子を育てることを選ぶ」と決意したそうです。結果、交換輸血を行ったことで翔子は生きることができました。

 

最初にそのことを主人から聞かされたときは、正直なところ「なんてバカなことをしてくれたの」といきどおりました。それでも主人は誇りを持って「僕たちで翔子を育てよう」と言ってくれて、翔子にたくさんの愛情を注いでくれた。仕事柄、海外出張が多く多忙な人でしたが、彼の父親としての愛情と誇りの高さには今でも感謝しています。