バブルの時代を象徴するワンレン&ボディコンを着こなすスリムな体型で、ドラマや歌番組に引っ張りだこだった田中美奈子さん。しかし、ふだんはスッピン&Tシャツ姿だったという、素の自分と次第にギャップを感じ始めます。(全3回中の1回)

見た目で常連感も「私生活でのディスコ経験はゼロ」

── 1986年に芸能界デビューし、話題のドラマに多数出演。89年には『涙の太陽』で歌手デビューし、「学園祭の女王」と呼ばれるなど、人気を博した田中美奈子さん。デビュー当時、瞳に1億円の保険をかけたことでも話題を呼びました。

 

田中さん:当時、芸能人が体の一部に保険をかけるのが流行っていたんですが、どうやら私がその先駆けだったらしいんです。ただ、自分としては正直、「なんで目なんだろう?」って、不思議でしたね。目の大きくて魅力的な方はほかにもたくさんいましたし、自分のなかではチャームポイントという意識がまったくなくて。「ものもらいでも保険はおりるの?」なんてよく聞かれましたが、さすがにそれはムリみたいです(笑)。

 

── 端正なルックスにワンレン&ボディコンスタイルがバッチリ決まっていて、華やかなバブル時代を象徴するような存在でした。

 

田中さん:あのころはボディコンを着て、前髪をとさかのように上げるスタイルの女性たちが街にあふれていたんです。だから「昨日、六本木のディスコにいたでしょ?」なんてよく言われました。でも、私はネオン街とか派手な場所は苦手で、ドラマの打ち上げで行く程度。「本当に私でした?ちゃんと見ましたか?」って、よく聞き返してましたね(笑)。

 

レナウンの「イエイエガール」のキャンペーンガールを務めたとき、ディスコでプロモーションがあったのですが、ああいう場所で声をかけてくる人って、誰でもいいんですよね。だから誘いには絶対にのらなかったんです。ディスコの黒服の方に「その潔さ、カッコいいね」って、ほめられたくらい(笑)。

 

── イメージと現実の姿とのギャップが大きかったのですね。

 

田中さん:ふだんはすっぴんでジーパンTシャツ。ボディコンどころかスカートすらほとんど持っていませんでした。だから、ボディコンやピンヒールにはすごく違和感があって、「タレントとしてこういう路線でいくの!?」って、とまどいましたね。

睡眠が1日平均1.5時間しかなかった週も

── ドラマにCM、バラエティ番組や歌手活動など、多方面で活躍されていました。かなりハードスケジュールだったのでは? 

 

田中さん:多いときは日に11本も仕事がつまっていて、スケジュール表の文字が小さすぎて虫眼鏡なしでは読めないくらいでした(笑)。シャワーを浴びるためだけに帰宅する日も多く、1週間の睡眠時間が合計で10時間なんてことも。ジャニーズの方と共演したときに「俺よりヤバいスケジュールの人がいる…」と、驚かれて「頑張れ!」と労われました。

 

── 1週間で10時間の睡眠とは…。想像を絶する忙しさですね。体調は大丈夫だったのですか?

 

田中さん:食事だけはしっかりとるようにしていて、1日5食くらい大盛ご飯を食べていました。でも、ある日、体調を崩して病院に行ったら「栄養失調です」と言われてしまって。あれほど食べていたのに…と思いましたが、それ以上に消費するエネルギーが尋常ではなかったのでしょうね。一時は体重が39キロ台まで落ちて、脚はミイラのような細さに…。さすがに母が心配して、「もう芸能界やめたら?」と言ってきたほどでした。病院で点滴を打って、そのまま現場に向かい、仕事が終わるとまた病院に戻る、そんな日もありました。

 

完全にベルトコンベアに乗せられて運ばれているような感覚でしたね。じっとしていると睡魔が襲ってきて、カクンと前に倒れちゃうから、ソファで寝たままメイクをしてもらったりして。いま思えば、倒れたほうが休めたのかもしれませんが、私、ものすごく丈夫だったんです(笑)。

 

田中美奈子
20代後半でタレント活動と並行して動物保護もスタート

── 当時はトレンディドラマの全盛期。ヒロインを演じた『もう誰も愛さない』(1991年、フジテレビ系)は、衝撃的な展開と豪華な出演陣で大きな話題を呼びました。

 

田中さん:視聴者の予想を次々と裏切るスピード感のある展開で、「ジェットコースタードラマ」なんて呼ばれていました。出演者が同世代だったこともあって、撮影の合間に街へ出て一緒に食事をしたり、深夜に品川プリンスホテルのテニスコートに集まって、みんなでテニスをすることも。学園生活のような雰囲気ですごく楽しかったですね。